Photo by Nuno Silva on Unsplash

「がんばれ」という悲鳴 – 映画『ヒミズ』感想

映画『ヒミズ』は公開当時、大絶賛する業界関係者と猛烈な批判をあびせる原作ファンとで評価が真っ二つに分かれたいわゆる問題作だった。私は監督の園子温と自分の感性が決定的にあわないことを『冷たい熱帯魚』で確認済みだったので、わざわざお金を払って地雷を踏みにいくこともあるまいとスルーを決め込んでいたのだが、先日あまりにもヒマだったのでつい出来心で観てしまった。

予想通りの結果すぎて我ながら情けなくなるのだが、地雷だった。いや、地雷は評価しすぎかな。画鋲を踏んだような気分だ。映画としても『冷たい熱帯魚』よりもっと小粒で、なにより原作ファンの一人として見過ごすことができない点が多々あった。園子温の『ヒミズ』と古谷実の『ヒミズ』はまったくの別モノとおとなしく割り切ればいいだけの話なのかもしれないが、それでも少し噛みついてみる。

原作が『ヒミズ』である必要性

とにかく全編を通して茶沢さんがウザい。こんなウザい女の子につきまとわれたら面倒で迷惑な話なんだろうけど、たぶん嬉しい。だが、それでもマンガの住田は自殺したから『ヒミズ』は今でも読み継がれるオバケみたいなマンガになっているんだろうし、住田を殺した古谷実はとんでもない作家だと、連載終了からずいぶんな時間が経った今でも目が離せない存在でいるんだろうと思う。

逆に3.11以降の希望を描きたかったと謳う園子温は住田を殺さなかったのだが、住田を殺さないのであれば原作として『ヒミズ』を引っ張ってくる必要はないと私は思っている。原作に漂う不文律を無視して、高潔なる暗黒絶望物語『ヒミズ』をただの感動青春物語にされてしまったことは、あのマンガを読んで何かを感じたり傷ついたりした私自身の青春が馬鹿にされたような気分で悔しい。

設定が「震災後」である必要性

そもそも震災を描いているように見えて、実はそこまで震災が深く作品の根幹に組み込まれているようには見えない。住田や夜野が瓦礫の街をさまようイメージシーンのようなものが要所要所でスポット的に入ってくるのだが、ストーリーに直接関係してくるわけではないし、テレビで流れる放射能情報も狙っているほどの演出効果をあげているように思えない。

なぜなら「震災後」を大きなテーマとして掲げてはいるものの、肝心の住田と茶沢が「震災後」に対してあまり気負っているようには見えないからだ。むしろ担任の教師や夜野など大人たちの方がよっぽど気負っているように見える。美辞麗句を並べる教師を住田は相手にしないし、未来のある住田を助けたいと自分の代わりに借金を用立てた夜野に住田は激怒する。勝手なことを言うなと反論し、勝手なことをするなと殴りかかる。はたしてこれが園子温の撮りたかった「震災後」なのだろうか。震災の前も後も、彼らの生きる世界も彼ら自身も何も変わっていないというのに。

劇中、震災の爪痕をうかがわせるものとして住田たちの目の前にあるのは、貸しボート屋の池の中に沈む家くらいなものだ。それを見るとホームレスの一人が震災を思い出すといって泣くのだが、住田がそれに対してどう思っているのかの言及は一切ない。茶沢に至ってはその池をカップルのデートスポットにしようとビラを撒き、必死に客を呼び込む。そのビラを見て客がわらわらとやってくる。後日通り魔事件を起こすことになる男もやってきて楽しそうにボートを漕ぐ。何人もの命を飲み込んだかもしれない池の上で。これが文字通り映画『ヒミズ』の根底にある死生観なのだが、もちろんこれは確信犯としてやっているのかもしれないし、『冷たい熱帯魚』から感じとった限りでは園子温ならその可能性も高い。だが、たとえそれが計算でも心がなんかモヤっとする。人によっては墓標に唾を吐いてることに近いと捉えられても仕方ないのだろう。ちょっと悪趣味すぎやしないだろうか。

以上のように、原作になかった震災後という設定は無理矢理入れ込んだわりには機能しているとはいえず、むしろあざとさを感じさせる。それは味付け程度にふりかけるスパイスにできるほど、震災はまだ風化されていない現在進行形の現実だからかもしれない。それを知ってか知らずか園子温の次回作『希望の国』はガッツリと震災に向き合った家族ドラマらしい。もしこの映画『ヒミズ』の延長線上にある感覚で撮っているのだとしたら、全く期待できない。

「がんばれ」という悲鳴

冒頭で述べた通り、『ヒミズ』を原作として使うなら住田の自殺は覆してはいけない核心だが、それでも住田を自殺させずに生きることを選ばせるのだとするなら、本編ラストシーンの住田と茶沢が並走しながら「がんばれ」と叫び合うシーンはこれはこれでひとつの正解ではないだろうか。いろいろ思うところはあるにしても、それを忘れさせ心を震わせるなにかがあった。

死ぬことをやめてこれから警察に出頭をしようとする15歳の少年と、その帰りを待つと決めた15歳の少女。ふたりが大声で叫ぶこの「がんばれ」は、言葉というより限りなく音に近いように感じる。必死に自分を立て直して生きることに向わせようする少年たちの体が軋んで鳴っている。キリキリと鋭い音を放つ。それはまるでこの世界に響きわたる命の悲鳴のようだ。言葉が持つ意味を超えた力が観る者を突き刺す。これはマンガでは表現できない、映像にしか許されない心情描写だろう。このラストシーンのおかげで『ヒミズ』という映画もマンガも少しだけ救われたような気がする。