玉虫色のメッキが剥がれる時 – 『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』感想

公開されてからネタバレ回避のためにネットは封印していたのだけど、この情報社会ではどんなに固く蓋を閉じていたって、隙間からチョロチョロと誰かの声が漏れてくるわけで。だからもう完全にネタバレを避けるには、誰よりも早く観るしかないということが今回よくわかった。考えず悩まず、さっさと観に行くが吉。混雑期を過ぎたあたりにレイトショーで静かに鑑賞なんて趣向はエヴァには望めない。

というわけで、満を持して先の三連休に観に行ってきた。複合型商業施設のシネコンは満員御礼状態。事前に良席を確保しておいてよかった。カップルに親子連れ、中高生のグループと場内はとっても賑やかで、これからジブリの新作でもはじまるんじゃないか?的錯覚に陥る。荒れているという情報だけは入っていた私は、これから2時間後の彼らのことが心配半分ワクワク半分だった。性格が悪い。

わかっていたつもりだったが、いざ実際にこうして老若男女幅広くエヴァが認められて求められている光景を目の当たりにすると感慨深い。もしオタクの原点に「お前たちにわかってたまるか精神」があるとするなら、もうきっとエヴァには「わかってたまるか」と言い放つ対象がいない。いまや問答無用のメジャータイトルとなった『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』にちょっとした疎外感をおぼえる開演前の10分間だった。そして消灯。

サービスタイムの終わり

まず率直な感想から言うと、何がなんだかよくわからない。そろそろ伏線を回収しはじめるのではと予想をしていたが、回収どころか新しい謎をバンバンと大量投下してる。始まってすぐいきなりわからなくなり、わからないことがどんどん積み重なるも、それがわからないまま進んでいく。

しかもこのわからなさは話の筋だけのことではない。観客がこの映画をどうやって楽しむべきか、つまり製作側がどこを楽しんでもらいたいと思って作っているのかがさっぱり見えてこない。というか、そもそもそんなことを考えて作っているようには思えなかったし、むしろわざとそう作っているようにも私は感じた。楽しませる気なんて端からさらさらないのかもしれない。

では、それもこれも全部ラストへのジャンプのための助走と割り切って許せるのだろうか。もちろん「これこそエヴァだ!」と嬉々として許す人もいるのだろうが、残念ながら私はもうそう思えなくなっている。まず基本的な話として劇場でお金をとって公開する以上、一本の作品として成立するだけのストーリー性は必要だと思う。いままでの前二作がそれぞれ一本の作品として評価に値する内容のあるものだったからこそ、今回のこの内容のなさは製作側の甘えとしか私には映らなかった。

エンドロールで周知の通り宇多田ヒカルの『桜流し』が流れるのだけど、例によって席を立つ人がポツポツといるわけで。でも「おいおい予告も観ないで…これだから何も知らない新参は…」なんて思えなかった。そういう人影はだいたい大きいのと小さいのがセットで、開演前に楽しそうにしていた親子連れが思い出されて気の毒でならなかった。子供をつれて、せっかくだからとポップコーンも買って、なんなら完全版パンフレットも買って、もちろん自分のチケットも買って…。けっこうなお金になる。なのにこの映画はそれに見合う何かを彼らに与えたのだろうか。

この世に数多ある制作物のなかから自分の作ったものを選んでくれることへの感謝は、ものの作り手としての基本だろう。だから作り手は少しでも買い手に楽しい思いを、他にはないスペシャルな体験をしてもらいたいとそれに応えようとする。まだ観てる人の邪魔にならないようにと背を曲げて席を後にするさみしそうなシルエットは、作り手として当たり前のサービス精神を忘れた製作陣の怠慢の結果ように私には映ったし、エヴァの洗礼を受ければいいとヌラッとした視線で彼らを見ていた鑑賞前の自分を恥ずかしく思わせるには十分な95分間だった。

玉虫色のメッキが剥がれる時

たとえ鑑賞後の後味が悪いものであっても、それは各々の責任へと転嫁され、本来なら作品へ向けられるべき評価は自分ないし他者へと向けられるのが今も昔もエヴァンゲリオン界隈の空気感だと思う。「楽しめないのは自分が悪い」「わからないと言うお前は頭が悪い」といった具合に断罪を迫り迫られる。この内向性と排他性こそエヴァが哲学的もしくは宗教的だとも言われる所以なのだろうが、私は今そういうエヴァの空気感にいい加減うんざりしはじめている。

意味深な言葉の裏側には必ず何かしらの意味や作品を貫く真実が隠されていると信じて疑わず、謎解きのヒント探しのために何回も劇場に足を運んだりする。私もそのなかの一人で、前二作はそれぞれ二回劇場で観た。でも今回は観てる最中に思ったのだ。さすがに思った。「これもしかして、なーんにも考えてないんじゃないのか?」と。

突拍子もない物語の加速。唐突に明らかになる新設定。説明を放棄した張りぼての世界観。たたむ気なんて全然見せないのに、なおも広げようとする大風呂敷をこうもまざまざと見せつけられると、いくら飼い慣らされた従順さのなかにも不信感や猜疑心の芽が生える。解決する気なんてない謎をバラバラ振りまいて、都合が悪い謎には新しい謎で蓋をして誤摩化して、結局収集がつかなくなるとみたらまた逃げ出して、最終的には「これがエヴァだから」と見得を切るつもりなんじゃないか?なんならこの人たち、もしかして永遠にエヴァを終わらせないつもりなんじゃないか?…。

そんな幼稚な衒学趣味と責任転嫁合戦にはもう付き合いきれない。「笑わせるな。そんなの今にはじまったことじゃない」と笑う人もいるだろう。ああ、笑ってくれてかまわない。でもようやく見えてきたのだ。散りばめられた謎の数々には見る人によって答えが変わる玉虫色のメッキが塗られているだけで、だからあれこれと考えるのは時間と労力の無駄なのだということが。そういう風にエヴァを観られるようになったのは、今作唯一にして大きな収穫だと思う。

終演後、苛立ちをグッと噛みしめながら劇場から吐き出されていくなかで、中学生とおぼしきひとりの少年が「ヱヴァQないわー!」と大きなひとり言をもらしていたのが印象的だった。それは何があっても「これがエヴァだから」と宣う大人たちより、よっぽど自然で健全な反応のように感じられた。いつまでも拗らせているのは大人になったかつての少年たちばかりじゃないだろうか。

玉虫色のメッキは剥がれた。わからないことをわからないと、つまらないものをつまらないと言わせないエヴァの呪縛をそろそろ解いて、あの頃から止まったままの時計の針を動かすなら今だ。