Photo by Eugene Zhang on Unsplash

「本当の自分」と死ぬまでダンス – 『ブレイキング・バッド』感想

すごく面白いと職場の上司から『ブレイキング・バッド』をおすすめされたのは、もうずいぶん前の記憶だと思う。『ウォーキング・デッド』も『ゲーム・オブ・スローンズ』もその上司のレコメンドだったので、その『ブレイキング・バッド』というやつも必見レベルなのだろうなと近所のゲオに行ってみたものの全然見当たらない。ちょっとマイナーだとは聞いていたのだけど、まさか取り扱っていないとは…。

そのうちどこで情報が漏れたのか、ゲオがいきなりシーズン3までレンタルがしれーっと開始させたのが夏頃のお話。おーっ!この時を待ってましたー!といざ飛びつこうとするものの…肝心の借りれるやつがない!いつ行ってもない!ことごとく貸出中!!このゲオでこいつが入荷する前からずーっとツバつけていたのは私だっていうのにぃー!!(怒)

そんな観たいのに観れない『ブレイキング・バッド』への積年の歯がゆい思いをある日Twitterで呟いたら、親切なフォロワーさんからHuluをすすめられた。どうもそちらでは既に全シーズン揃っているとのこと。おいおいなんだよHulu!超いいじゃん!しかもウォーキング・デッドのシーズン4もあるし!というわけで入会。「動画配信サービスなんて粋じゃないっすよ!店に行くから思いがけない出会いがあるんすよ!」というアナログ根性はまだあるのだが、今回の『ブレイキング・バッド』に限ってはもうゲオに行って「今日はあるかな〜(あってくださいお願いします!)」とやることに疲れちゃったのだ。

というわけで、シーズンファイナル(Huluではシーズン5)までの全62話を先日ようやく観終わった。途中で休憩(『めだかボックス』を読んでた)を挟んだりしていたせいで二ヶ月くらいかかってしまった。

核心と革新

結局のところ、この『ブレイキング・バッド』という作品のテーマとは一体何だったのだろうか。もっというと、世間のみんなはこの作品の何に共感して賛辞を贈っているのか。そんなことを頭の片隅でずっと考えながら観ていたので、そこを中心に考えてみたい。

まずは概要のおさらいから。このドラマは末期ガンの主人公・ウォルターが家族にお金を残すために、自らの知識や才能を遺憾なく発揮して純度の高い覚せい剤ブルー・メスをつくる話なのだが、ウォルター自身の心のなかは彼がつくるそのブルー・メスとは反対に酷く濁っているし、次々と犯罪の泥沼に身を沈めながらそれを更に淀ませていく。それでもウォルターは家族のためという言い訳をしながら、目の前に立ちはだかる「困難」を乗り越えていく。

この「困難」とは犯罪の露呈だったり逮捕の危機であったり、時には命の危険であったりするのだが、それは同時に人として持つべきモラルを取り戻すための回帰線でもある。生きるために越えなくてはならないハードルは、人として越えてはいけないハードルだった。そしてウォルターはそのハードルをすべて乗り越える。もちろん成り行き的なものや悪運もあるのだが、結果的にことごとく乗り越えてしまう。

その過程のなかで、ウォルターは守ろうとしていたはずの家族までをも巻き込み、ずるずると自らが作り出した泥沼へと引きずりこんでいく。これはもちろんウォルターにとって不本意な結果のはずなのだが、そんな思いとは裏腹にウォルター本人はその過程で本来の自分を取り戻していく。朴念仁然とした最初期の頃が嘘のように、ギラギラとした生気を滾らせていく。一時とはいえそもそもの出発点だったガンさえも克服する。

そして最終話、ウォルターは妻・スカイラーにこう言うのだ。家族のためではなく自分のためだったと。自分には才能があり、そこに生きているという実感があったと。ウォルターが最後の最後に本音を吐露する、物語の締めくくりにふわしいまさに総決算といえるシーンなのだが、私はここにこの作品の核心と革新性をみたような気がした。端的にいえばそれは「家族」という価値観への疑念だ。

家族と銃口

人間の行動原理のひとつに「家族」があると思う。それは私も家庭人のひとりとして理解できる。それでも最近海外ドラマをよく観ていて思うのは、向こうの人たちはこの「家族」という行動原理に必要以上に縛られすぎてはいないか?ということだ。ウォルターもそうだが、何をするにも「家族のため」「家族のため」と、まるで呪文かのように唱えるその様には何か盲目的なものを感じるし、ドラマを観る側としては正直辟易するところもあったりする。あー、また「家族」かと。

これは文化の違いも大きいと思うのだが、それでも私は敢えてここで聞いてみたい。なぜここまで「家族」なのだろう?「家族」はそんなにも大事なのだろうか?こんなことを言ったら「家族が大事なんてそんなの当たり前だ!」なんて彼らは怒るのだろうか。しかし、この『ブレイキング・バッド』という作品はその既成概念に対して堂々と銃口を突きつけたのだ。

シーズン1の第1話、死体を乗せて暴走するキャンピングカーが脱輪し、もはやこれまでと観念したブリーフ姿のウォルターは「これは全部家族のためだったんだ。それだけはわかって欲しい」と弁解のビデオレターを撮って残そうとする。そして意を決し、サイレンの鳴る彼方へと銃口を向ける。しかし、姿をあらわした消防車はウォルターなんて見向きもせず通り過ぎてしまう。なんで自分が助かったかわからないウォルターは、とりあえずさきほど撮影したビデオレターを破壊する。

この一連のシークエンスは、全部観終わった後に見返すと非常に象徴的なものであることに気づく。家族を言い訳にし、暴力に走り、悪運に助けられ、さっきまでの言葉を反故にする。ウォルターはこの一連の流れをこのあと何度も何度も愚かしく続けていくのだが、そのウォルターを通してこの作品はずっと我々に問い続けていたのだろう。あなたにとっての「家族」とは何か?それはあなたの人生にとっての唯一解なのか?と。そう、あの時のウォルターの銃口は、画面を突き抜けてこちら側の我々へと向けられていたものだった。

自己実現と本当の自分

ここでさきほどの最終話、例のスカイラーと対峙する場面に話を戻す。前述の通り、ウォルターの答えは「自分」だった。でも、ここまで観ている人ならばみんな、ウォルターが全部自分のためにやっているなんてことはわかっていたと思う。しかし、まさかそれをウォルターにはっきりと言わせるとは思っていなかった。正直いうと私はこのシーンで初めて海外ドラマというものを見直したし、偽善も欺瞞もない本当の声で喋る海外ドラマの主人公にようやく出会えたような気がした。

それはきっとウォルターだけの話ではない。誰しもが少なからずウォルターと同じような「現実への不満」と「自己実現への憧れ」を持っているはずだ。そして「自分は本当に自分らしく生きているのか?」と自問自答を繰り返している。

しかし、たぶん「本当の自分」なんてどこにもいないのだと思う。しいていうなら、今の自分こそが本当の自分なのだ。だから私たちにできることは、本当の自分を取り戻そうとする自己実現ではなく、今の自分を本当の自分として受け入れることだけなのだろう。でないとウォルターのように「本当の自分」という幻影に破滅させられることになる。

でも、その幻影と踊るのもまた人間なのだ。そしてその人間くささが『ブレイキング・バッド』の魅力であり、多くの人の共感を呼ぶ理由なんだと思う。

グリーンとピンク

まさか「ジェシー」とひとつも書かずに『ブレイキング・バッド』の感想を書くことになるなんて思ってもみなかったので、せっかくだから少しだけジェシーのことも書いておきたい。

ウォルターのイメージカラーである「グリーン」と、ジェシー・ピンクマンの「ピンク」は補色の関係にある。補色とは色相環で正反対に位置する関係の色の組み合わせのことで、補色同士の色の組み合わせは、互いの色を引き立て合う相乗効果があり、また最も反発し合う色が補色だと言われている。

この補色の説明が、そのままウォルターとジェシーの関係性そのものだろう。ちなみに、グリーンとピンクは混ざり合うと灰色になる。そしてそんな彼らの腐れ縁が『ブレイキング・バッド』のおもしろさを大きく支えていることは間違いない。

最強と伝説

最後に。『ブレイキング・バッド』と同じく中年オヤジが自らの人生と闘う物語に、福本伸行の『最強伝説 黒沢』というマンガがある。タイトル通り黒沢という中年オヤジが主人公なのだが、これがまたウォルターのさらに上をいくような冴えない男なのだ。しかも黒沢にはウォルターみたいな才能や運さえもない。

でも、黒沢が様々な葛藤を経て至った境地は、ウォルターのそれの一歩先をいっていると思う。もし『ブレイキング・バッド』を楽しめたのであれば、こちらも読んでみることを強くオススメする。はじめは「???」になるかもしれないが、ここはひとつ騙されたと思って最後まで読んでもらいたい。