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夜空の星々、永遠の光と闇 – 『TRUE DETECTIVE』シーズン1感想

随分と前の話になるのだが、まずクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を劇場で観たのだ。勿論ちゃんとIMAXで。感想がうまくまとまらないのだが、一言でいえば、まあ最高だった。心の深いところから「ウォー!」という声にならない歓声が湧き上がってくるくらい。前作の『インターステラー』がいまいち不完全燃焼だった私としては、『ダンケルク』は手放しで「ウォー!ノーラン、サンキュー!」だったわけである。はい。

その翌日。『ダンケルク』の余韻を引きずっていた私は、何とはなしにHuluをチェックしていた時に思い出す。マイリストのなかで眠っていた『TRUE DETECTIVE』の存在を。「ダンケルク→クリストファー・ノーラン→インターステラー→マシュー・マコノヒー」という単純な連想ゲームだった。

意気込んで1話と2話を観たあとの感想としては、「うーん、思っていた通りおもしろそうだけど、思っていた以上に地味だな…」というのが正直なところ。この時点ではイマイチのりきれなかったので、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす(最近めちゃくちゃハマっている)。

その翌日。3話と4話(例の長回しすごい)を観て、「これ、けっこう面白いかも…」となり、続きがだんだんと気になりだすのだが、でも、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす。このドラマ、一話観るだけでもけっこう疲れる。適度に休憩を挟んで気分転換をしたくなる感じ。

その翌日。5話と6話を観て、6話の最後に「キタキター!」となる。テンションは既に最高潮。でも、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす。別にスプラトゥーンをやりたさすぎるというわけではなく、もう残り二話しかないと思うと、観るのがもったいなく思えてきて止めたくなる。一番美味しいところを食べる前に、まずは深呼吸。性分だ。

その翌日。満を侍して残りの7話と8話を観て、唸る。そして思う。「どうしよう…ダンケルクよりも面白かったかも…」と。まあ、タイプもジャンルも全然違うので単純な比較は出来ないのだろうけど、劇場で涙を流しまくった『ダンケルク』よりも、この『TRUE DETECTIVE』の方が自分のなかに決定的に残り続けそうな何か、誰かに伝えたい特別な何かを感じた。

実際に、夏に観たドラマのことを、秋が過ぎて冬になり、そして春になった今でもこうやって、気持ちは何かを書き残そうとしている。そしてたぶんそれは最終話、マシュー・マコノヒー演じる主人公ラスト・コール刑事のある台詞がずっと澱のようにどこかで引っかかっているからなのだろう。

「それは『光』対『闇』の物語だ」

『光』と『闇』

この台詞を聞いた時、何故か瞬間的に『スター・ウォーズ』のことがパッと頭に浮かんだ。とは言いながらも、実はあまり『スター・ウォーズ』のことは詳しくなく、恥ずかしながらちゃんと最初から最後まで観たことがあるのは『エピソード7/フォースの覚醒』だけだったりするのだが。

そんな『スター・ウォーズ』初心者なので、あまり生意気な言及は避けるが、それでも素人考えを言わせてもらえるならば、『スター・ウォーズ』という作品群が世界中の人々を長きにわたって魅了しつづけているのは、おそらくそれが『光(ジェダイ)』対『闇(シス)』という古からの二元論を非常にシンプルかつキャッチーに描いているからではないだろうか。

光と闇の戦いを扱った物語を挙げていったら枚挙に暇がないが、そのなかでも『スター・ウォーズ』は光(ライトサイド)と闇(ダークサイド)の差別化やビジュアライズが非常に巧みだと思う。闇という概念そのものを体現するかのようなダース・ベイダーの不穏な外見や、ジェダイとシスで違うライトセイバーの色(ジェダイは青または緑、シスは赤)など、ジョージ・ルーカスが作り出した光と闇の表現はとても端的で、端的だからこそ誰にでもわかりやすく伝わるのだろう。

このまま話が『スター・ウォーズ』に逸れてしまいそうなので引き戻すと、この光と闇という二元論は、先に述べた通り、まったくもって手垢のついた題材に違いないが、逆を言えば、それはどんな時代においても語らずにはいられない、我々にとって永久不変のテーマでもあるのだろう。もっと言えば、すべての物語は多かれ少なかれ『光』対『闇』のドラマであるとさえ言えなくもない。

この『TRUE DETECTIVE』という作品も、表面上は連続殺人事件を追う刑事もので、刑事(光)と犯人(闇)の対決なのだが、この作品がただの推理サスペンスで終わらないのは、その両者の対決を物語の主軸にしながら、また同時に登場人物たちひとりひとりの『光』対『闇』の葛藤を、絶妙の距離感でそれに併走させているところだろう。本来ライトサイドである刑事たちは刑事たちで、自分のなかに巣食う宿痾のような『闇』を抱えている。彼らは犯人(闇)を探し当てる過程のなかで、互いにその自分の中の『闇』も曝け出し、時には激しくぶつけ合わせ、そしてこの長い旅(ここは敢えて「旅」と言いたい)の果てで、ようやく何かを乗り越える。

旅の終着点となるこの物語の最後のシーンは、ラストが入院している病院の上に広がる夜空である。そこには小さな星たちがひっそりと瞬いていて、それを見上げるもう一人の主人公、ウッディ・ハレルソン演じるマーティ・ハート刑事がこう言う。「でも、今は光が優勢だ」と。

はたして、観た方々はこのマーティの言葉をどう解釈し、何を感じただろうか。かく言う私はというと、全くもって『光』が優勢なようには見えなかったのだ。確かに星が光ってはいるのだが、それよりもまだまだ『闇』の方が広く深そうに思えた。

ただ、そういった見地から一歩離れて考えてみると、ここでマーティ(もしくは脚本家)が言いたいことは、きっとそういうことではないのだろうと感じてくる。大事なのは私と彼ら、一体どちらの見方が正しいのかと、その『光』と『闇』の度合いを見極めたようとしたり、または互いの意見を擦り合わせたりしようとすることではなく、マーティという人間がそう言っているということ、そのもの自体にあるのだろう。そしてそれはまた同時に、誰かがそう言った瞬間にそういう風に映る光景というものが、私たちのこの世界にはあるのかもしれないという可能性の示唆でもあるのだと思う。

そう、これはおそらく「定義する意志」の問題なのだ。たとえそれが『光』と『闇』のような相反する事象であったとしても、こうやって夜空のようにそのどちらもが同時に混在する状況下においては、その優劣の定義は実に難しい。両者の間にある「境界線」はどうしても、そしてどこまでも曖昧だ。しかし、これはこれで、常に新しい議論を挟むことのできる余地(または可能性)が残されているともいえる。であれば、夜空を指差してそれが『光』である、もしくは『闇』であるといった各々の見解は、どんな場合においてもそれを断じようとする者が「その時に立っている場所(心持ちともいえる)はどこか」という条件によって大きく左右されることになるだろう。なので、たぶん答えとしては、どちらも正しく、どちらも間違いである。いや、きっと正誤の問題でさえなく、世に言う「絶対」や「真実」なんてものとかけ離れたところにある「水物」な話なのかもしれない。だから、もしそこに何か拾い上げるべき価値あるものがあるとするならば、それは何かを「決めつけよう」とする意志の方であり、もしくはその意志に基づいて起こる行動そのものにあるだろう。そして、たぶんそういった我々の意志や行動の「出発点」に、人生を賭して目指すべき私たちの境地が実は隠されている。そんな気がする。

ずいぶんと大袈裟な物言いになってしまい、我ながら何を書こうとしているのかよくわからないような部分もでてきたので、このあたりでわかりやすく結ぶとするなら、そう、私は甚く感動したのだ。そしてこの感動は、決して涙が溢れて流れるような類いのものではなく、まるで触れた瞬間から古傷のような疼きを私に刻み遺していったのだと思う。

真実の「静かさ」について

夜空のことを散々語ってきたのだが、実は全編を通して私が一番痺れたシーンは、真犯人と思わしき人物のアジトの前に、ラストとマーティンの車がやってくるところだったりする。車を降りてすぐにラストはマーティンに確信を持って伝える。「ここだ」と。まるで自分にも言い聞かせるかのように、極めて少ない言葉でそっと呟く。

そうなのだ、ここなのだ。真相を一足先に知っている視聴者側の我々はたぶん皆「そう、ラスト!ここ!」と思ったことだろう。ラストはここに辿り着くまでに、数々の代償を払ってきた。それをここまでずっと見せつけられてきた我々としては、どうしてもある種の昂りを抑えることは難しかったりする。

でも、当のラストの「ここだ」には「!」みたいな感嘆詞はついていない。極めて冷静な口調での「ここだ」なのだ。はたして本当にそんなに淡々といられるものなのかと少々疑ってしまう。いくら百戦錬磨の刑事であったとしても。

しかしその一方で、案外そんなものかもしれないように思えてもくるから不思議だ。既知のものに出くわした時、私たちはあまり驚かない。それを確かめる言葉もまた静かであるはずだ。

きっとラストは、この光景を既に知っていたのだろう。真犯人に関する断片的な情報を拾い集めて、それを何度も気が狂うほど頭の中で組み立ててきたその執念は、現実よりも先に真犯人に行き着いていて、あとはこの体をそこに運ぶだけだったともいえる。そして目的の地にようやく立った今、ラストが発する言葉は少ない。

もちろん劇的な感情が爆発してもおかしくない場面ではある。ただ、それが静かであればあるほど、真実というものの受け入れ方としてより自然なように思える。それは真実というものが静かだからなのかもしれない。真実はいつもそこにあるだけで、大きな声で手招きしているわけではなく、道端の石ころのように静かにこっちを見ている。いや、たぶん見てもいない。それが自分の求めている答えかどうか、それを見る我々がいつも決めているだけだ。