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私たちの『SPEC』
※本エントリーは『SPEC〜翔〜』までの核心に触れています。未見の方はご注意ください。『SPEC』は予備知識ナシの方が断然楽しめると思います。私がそうでしたので。
製作発表からずっと楽しみにしていた劇場版『SPEC~天~』の公開がいよいよ始まった。意気込んで初日に行こうかなと思っていたのにもかかわらず、出かけるのが億劫になってしまい結局見送ってしまったのは、まるで冬に戻ったように週末の風が冷たかっただけではないように思う。まあ、いずれにしてもそのうち観に行くと思うのだが、物語の行く末を見届ける前に自分なりに感じている雑感をまとめておこうかなと思う。
『ケイゾク』のスペックホルダーたち
『SPEC ~警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿~』(以下『SPEC』)は警察と超能力者(スペックホルダー)の戦いをテーマにした作品だが、思えば監督の堤幸彦は『SPEC』を撮るずっと以前から超能力者や霊能力者との戦いを描いてきた人だった。人気監督の仲間入りを果たすきっかけにもなった『ケイゾク』には、何人か超能力者と思わしき人物が登場する。第5話の犯人である鷺沼(大沢樹生)は逮捕時こそ落ちぶれたインチキ霊能力者だったが、昔は確かに自分には透視の能力があったと語っている。そして忘れてならないのは真山(渡部篤郎)の宿敵である朝倉(高木将大)。カウンセラー(森口瑤子)が言うには“催眠術で人は殺すことはできない”はずなのに、自分の意のまま他者の生殺与奪の権利を奪う朝倉は作中最後まで“不思議な能力を持った男”の域を超えることはなかったが、『SPEC』を観た後だと“他者の意識の中に自由に潜り込み操ることができる(マインドコントロール?)”というスペックを持ったスペックホルダーの一人ではなかったのかと推察することも出来る。『ケイゾク』と『SPEC』が同じ世界設定を共有する物語なら、『ケイゾク』に鷺沼や朝倉といったスペックホルダーが登場していたとしてもおかしくはない。
血を流す理由
堤幸彦はどうしてこんなに超能力者や霊能力者が好きなのだろう?思うにそれは、剥き出しの人間性を暴く切り口をそこに感じているからではないだろうか。たとえばそれは持つ者と持たざる者の物語であったり、マイノリティと多数派の物語であったりする。そこで語られる偏見や差別といったテーマは、いずれも昔から綿々と問われてきた私たちの社会の永遠の課題だ。堤幸彦はそんな私たちの繋がれなさや繋がりにくさをコミカルに、時にシリアスに血生臭く暴いてみせる。いかにそれが困難なことであっても、たとえ死ぬまで答えがでなくても、生きている限りは求め続ける価値がそこにはあると、歩み寄ることを諦めない前のめりの戦いを通して。「それがあなたたちのスペックなんだよ?」なんて堤作品のキャラクターたちは決して言わないと思うが、彼らの流す血や傷が言葉以上にそれを物語っていると思う。
物語を壊した最強のスペック
さて、スペックホルダーとはこれまで考えられてきた人間の限界を超える、今の科学では説明不可能な能力(スペック)を持つ者のことをさす。彼らの存在は超法規的すぎるため、そのスペックが犯罪に使われた場合、現行の法律では裁き切ることは難しい。たとえそのスペックが悪しき方向へむかわないとしても、秘密裏かつ超法規的に何らかの措置もしくは処分する必要があると警察は考えていて、それがそのまま津田(椎名桔平)率いる公安零課の役目となる。
それに対して主人公の当麻(戸田恵梨香)や瀬文(加瀬亮)たちは、あくまで通常の刑事として罪を犯したスペックホルダーたちを検挙しようと奔走する。捜査と推理で犯人に迫るというハード面での刑事ドラマとしてのスタンスを崩さず、特殊な能力を相手にフェアプレイを貫く。ここに『SPEC』というドラマの妙というか面白さがあると私は感じていた。なので、当麻が実はスペックホルダーだったという設定はとても残念だと思うし、興ざめの後出しジャンケンだとも思う。さすがに製作サイドもこれはチートすぎると思ったのか最後に海野(安田顕)を使って封印させていたが、正直それでもかなり熱が冷めた。というわけで冒頭の通り公開初日からいざ!とはならなかったのだ。
私たちのスペック
「ハード面での刑事ドラマとしてのスタンス」と書いたが、それは「捜査→逮捕」という方法に限ってのことであって、逆に主人公たちの行動原理は一般的な刑事ドラマのそれと少し異なる。一般的な刑事ドラマの刑事の行動原理は、純粋でパブリックな正義感に基づくことが多いが、この『SPEC』というドラマの主人公たちはちょっと違い、前者と比べるとパーソナルな部分の比重が大きいように思う。当麻は自分の左手を奪った一(神木隆之介)の影を追い、瀬文は自分が体験した後輩・志村(伊藤毅)の事故の謎(そういえば一が銃弾の軌道を瀬文から志村に戻した理由はまだ語られていないと思う)を探ろうとする。彼らにとってはそれが前へ進む大きな原動力になっている。思えば『ケイゾク』の真山も同じように警官としてという理由以上の執着で朝倉に張り付いていた。
それらはまるで「彼らは刑事であり、もちろん人間でもあるんだよ?」と言っているように聞こえる。野々村(竜雷太)が重要な局面でよく口にする「心臓が息の根を止めるまで、真実に向かってひた走れ。それが刑事だ。」という決め台詞も、私にはこの「それが刑事だ。」の部分が「それが人間だ。」と言っているように聞こえる気がするのだ。もし刑事が命ある限り真実に向かってひた走る者であるというのならば、刑事とは職業でありながら人間の本質的な生き方のひとつでもあり、私たちが持ち合わせている性(さが)でもあるのだろう。真実のもとに在りたいと願い、そこに命を懸ける価値があると信じられること。瞬間移動やサイコキネシスみたいに派手さはないが、それもまた私たち人間の歴としたスペックなのかもしれない。
<追記:劇場版の感想はこちらに書きました。>