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『ソードアート・オンライン』アニメ版感想

友達がおもしろいみたいなことを言っていたのでソードアート・オンラインのアニメを観てみた。ザックリいうと「ソードアート・オンライン(以下SAO)」というVRMMOを主題にした、ゲーム世界で死んだら現実世界でも死ぬデスゲーム的な話で、なんか興味を持った。ちなみに原作は未読。

原作がライトノベルなので、厚みうんぬんの話をするのは酷なのかもしれないけど、主人公も他の登場人物たちが、どれもゲームないしアニメのキャラクター以外の何ものでもなくて、言いそうなことを言い、やりそうなことをやる。そういう人物造形の薄っぺらさが気になった。

特に終盤はシナリオ面でも緊張感に欠ける展開が続き、最初の頃の持ち味もなくなってしまった印象で、中盤あたりからはじまる主人公とヒロインを中心としたラブストーリーは観てるこっちが恥ずかしくなってくる感じだった。とはいえ、なんだかんだ考えたりするところもあって、おおむね楽しめたのかなと思う。以下、感想やらツッコミやら雑感など。ネタバレも入ってくると思うので、未見の方はご注意を。

勇者が振るう剣の軽さについて

中盤、ニシダという釣り好きのおじさんに主人公たちが出会うのだが、ニシダはゲームクリアを諦めていて、SAO内で生きることもまたよしと思っている。現実世界に帰ったところで、仕事はどうするとかいう懸念事項がたくさんある。それなら、こうしてSAOのなかで釣りをしている方が幸せかもしれないとニシダは感じている。

でも結局、ニシダはゲームクリアを諦めていない主人公たちに感化され、応援して最前線へ見送る。私はここにひっかかった。ニシダはニシダ自身が感じている通り、ゲーム内でニシダというキャラクターとして生きた方が幸せなんじゃないのか。

現実世界では、定年前のいい歳したおじさんがくる日もくる日も釣りに明け暮れることなんていろんな理由で許されない。今のニシダの生活は、SAOからログアウトできないからこそ手に入ったユートピアなんじゃないのか。それなのに、なぜニシダは現実世界への回帰を願うのだろう。懸念だらけの現実世界は、今のユートピアを捨ててまで帰りたい価値のある場所なのか。

しかし、本作の主人公はそういったひとりひとりの幸せの在り方に対して特に考えがない。それどころか、解放こそ全プレイヤーの願いだと信じて疑わず、自分こそがその大命を担った勇者であると信じている。

だからもしこの作品がVRMMOの功罪を本当に描きたいのであれば、ニシダが主人公に感化にされる部分を描くだけではまだ薄っぺらい。逆もまたしかりなのだ。

主人公はニシダみたいなキャラクターの存在もこの世界にいるということを知ることで、ゲームクリアに対して少しは何らかの疑問を持つべきだった。自分がしようとしていることが、誰かに何かを与えるだけだなく、誰かから何かを奪うという可能性もあるということを、勇者を語るならなおさら知るべきだった。たぶんそれで彼が振るう剣の重さがだいぶ変わったはずだ。

茅場晶彦がSAOに求めたもの

主人公はSAO攻略のなかで成長し、ヒロインをはじめいろいろな人と関係を深めていく。ヒロインとゲーム内で結婚をしたりして安息を求める気持ちも芽生えるが、しかし大願としてのゲームクリアを忘れることはなく、また過酷なデスゲームの最前線に戻っていく。

このように終始ゲームクリアからブレずに、是が非でも帰りたいと願う強い気持ちは、デスゲームを続けながらも根っこの部分で自分の心や本当の命は肉体とともに現実世界に残してきたと思っている証拠なのではないだろうか。でもそれは同時にSAO内でのあらゆる精神活動の否定に繋がりはしないだろうか。

確かにSAO内で主人公を苦しめる仲間の死への慚愧も、ヒロインへの揺るぎない愛情も、それもすべて茅場晶彦によるゲーム設定でないと茅場以外の誰も言い切ることはできない。

でも、それを茅場はシステムを凌駕する人間の意志の力だとして認めたかったのではないのか。何なら、その存在を確かめるためにSAOという新しい世界を創造したのではないのか。だから、それを己を貫く刃として受け入れたのだろう。私はそう思ったのだが、個人的にはもうちょっとそのあたりを掘り下げて欲しかった。

いずれにしても、主人公たちがSAOに求めたものと、茅場がSAOに求めていたものはズレまくっている。なので、茅場が主人公を認め、また主人公も茅場を認めるのもおかしいように思う。主人公たちが見ている世界と、茅場が見ている世界はまったく別物だというのに。

これからの命

元を正すと、そもそも主人公たちは何を求めてこの世界に来たのだろう。ベータテストの段階からのめり込み、わずか一万本のゲームソフトを発売当日に手に入れた主人公にとってのSAOとはいったい何だったのだろう。

主人公はSAOにログインした時にこう言った。「帰ってきた」と。彼はこの仮想現実こそ自分が在るべき世界であると、自分を救う新しい現実なのだと、きっと現実世界での生活を送りながらずっと思い続けていたのだ。それなのに、彼らはなぜ仮想現実のなかの心もまた心だと思えないのだろうか。肉体が伴わないから?だったら、VRMMOはどこまでいっても所詮ゲーマーたちの暇つぶしの道具にすぎないのか?

VRMMOや仮想現実の世界は、私たちにとってこれからの技術だ。しかし私たちも結局それを主人公たちのように捉えてしまうのだろうか。人間の精神が結局この肉体にしか宿らないものであり、仮想現実のなかでの独立が認められないものであるとするなら、そこに新しい価値観を見出すことのできない未来は、私が想像していたものよりずっとつまらなさそうだ。

私たちの精神はこれからも肉体としか寄り添えないのか。精神があるから、そこに肉体はなくとも命があると思える未来がやってこないものかと、ネットワークに自分の意識をコピーして肉体を捨てた茅場先輩はSAOや自身の最期を通して伝えたかったんじゃないかと思うような気がする。