特別でない、ありふれた自分を許そう/『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想・個人的所感

あなたにはあなたのエヴァがあり、私には私のエヴァがある。そして、それでいいんだろう。エヴァを最後まで見届けて浮かんだ感想の第一声として、そんなことだった。はたして、あなたはどうだったろうか。私のエヴァはちゃんと終わった。この日を迎えられてよかったと素直に思う。本当に。なんなら大満足だ。大きな声で言うのはちょっと恥ずかしいけど。

だからなのだろうか、「○○とは何だったのか?」的な、内容や謎についての考察に、もはや意味などあるのだろうか?なんて、そんな生意気なことさえ思ってしまう。いや、知ろうとすることは自由だし、なんならとても正しい。むしろ、誰かの考察を読んだり、誰かと感想を共有することこそがエヴァという作品の最大の醍醐味だとも思うのだ。

ただ、今の自分にとっては、今回の自分に限っていえば、ネットのレビューを読み漁って情報を補完することよりも、この2時間30分の間に湧き上がった数々の断片的な想いや感情を、こうして誰の声も聞こえないところで思い返して閉じ込めておくことの方が大事なように感じている。

なので、今はまだ誰の何のレビューも読んでない。そのうち程よくこの火照りが醒めるだろうから、それはその時まで楽しみにとっておこう。・・なんて思っていたけど、いや、このまま読まないかもしれない。

みんなの意見や見方に興味はあるけど、とりあえず今は必要だとは思わない。このまま純然たる自分の想いだけを、空気にさえ触れさせず、ホルマリン漬けみたいに保存しておきたい。そんな大したものじゃないかもしれないけど。今はそんな気持ちだ。

これまでのエヴァとの思い出

今作はやはりシリーズのラストということで、観る前からいろんなことを思った。この25年間の思い出。否が応にも振り返らざるを得ない。ビデオテープで観たテレビシリーズ。思春期の頃のこと。アニメイトでネルフマークのついた財布を買ったこと。公開初日に徹夜で並んだシト新世。あの冷たい雨の夜のこと。そして朝イチで観てブチ切れたこと。

その反対に、公開終了間際に何の期待もせず観に行った旧劇。そして誰もいない劇場でひとり途方に暮れたこと。そこでエヴァとの縁は切れると思っていたのに、数年後に今度はパチンコのエヴァに激ハマりしたこと。なんかいろいろと思い悩んでいた時代にふと旧劇を見返して、妙に感動したこと。なんとなくそこでエヴァとは縁を切れそうな気がしていた。

そのうち、また新しく劇場版が始まった。その頃にはもうエヴァは立派なポップカルチャーで、なんだか少しずつ離れていくような寂しさ。破は今はなき新宿ミラノ座で観た。帰りのマクドナルドでこんなのエヴァじゃないと悪態をついた。そしてQ。これはこれでふざけるなとブログで悪態をついたことは、まだ記憶に新しい(とはいえもう9年前だが)。

こうして振り返ると、TV版のラストを観た20数年前から、ずーーっとエヴァに対して怒っている。文句ばかり言っている。終始楽しく観られたのは新劇の序くらいなものだ。たぶん総じて期待しすぎていたのだろう。

実際、エヴァに対しては、他のアニメや漫画には抱かないような、特別な何かを求めてしまいがちだ。そしてそれは、ファンの期待を裏切りまくってきたからこそ背負う羽目になった、エヴァ自身の責任ともいえなくないが、その一方で、私も私で過度に熱くなっていた部分もあったと思う。

ただ、見方を変えれば、それだけの熱意をもって、エヴァンゲリオンという作品に向き合えていたのだと言っていいだろう。これまでの長い間ずーーっと。だから、もういい大人になったと思っていたQの頃だって、まだまだ少年の気持ちでもって真っ直ぐ向き合っていたということだ。全然大人になれない。それこそ「エヴァの呪い」だ。

大人になるということ

では、シン・エヴァを観終わった今はどうか。ただ一言。「凪」である。内容や結末に対して、これまでのような怒りや憤りはカケラほどもない。最初に述べた通り、今は無事に見届けることができた安堵が心のうちの大部分を占めているが、それを差し引いても、これ以上・これ以外の終着点があるのか?とさえ思える。

なので、もう新しいエヴァが観られないことへの寂しさも皆無だ。不思議なくらいシン・エヴァは、自分にとってのエヴァの最後の1ピースとしてパチンとハマった。

そして、この納得や満足感は、作品自体の力もそうだが、Qの終わりからシン・エヴァ公開までの間に少しずつ、でも確実に年老いていった私自身の変化による部分も少なくないだろう。今の自分だからこその感慨と、そして決着なのだと思う。 十年一昔というが、この約10年間で、私もようやく適切な距離感でエヴァを楽しめる人に成ったということだ。

とにかく今回のシン・エヴァは、最初から肩の力を抜いて,最後まで登場人物たちの気持ちに寄り添えて観ることができたと思う。「うんうん、わかるわ」や「いいこと言うなあ」だったり、「そんなの、もう知ってるわ」だったり。そうやってずっと物語と対話をしていたような気分だ。

もちろん、わからないところはわからない。そしてこれまではそれが「うーん、わからない・・」となり、最終的に怒りの火種になっていたのだろうが、今はそんな「わからない自分」もまた自分であり、そしてそれでいいのだと思える。正直、牙が抜けたみたいで、情けなく感じるところも少しあるが、ただ、これまでみたいに何もかもわかろうとするのも、それはそれでなんだかとても傲慢なように思えてくるのが、最近の気分だ。

「分を弁える」という言葉がある。身の程を知るということだ。別に自分を卑下するというわけではない。わからないことがあれば、ああ、まだまだ勉強すべきことは多いなと、素直に認められる自分がここにいるということだ。余計な力が抜けたニュートラルな状態。そう、まるで凪の海のように。

たぶん自己愛が肥大化していたのだろう。そして、それが自らの成長を止めてしまう「エヴァの呪い」のようなものだったとしたら、大人になるということは、許すことなのかもしれない。特別でない、ありふれた自分を許そう。そんな風に思えるようになった自分が今ここにいる。

なぜ鉄道や駅なのか?

書きたいことは書けたので、もうこれで終わってもいい気分だけど、書いているうちにエンジンがかかってきたので、観ていて頭に浮かんだものへの読み解きなどもせっかくなので書いておきたい。

今回のシン・エヴァはご存知の通り、鉄道や駅が重要なモチーフになっていて、物語のなかに散りばめられている。キービジュアルもずっと線路の絵であったし、第三村の共同浴場や図書館が列車の中にあることも、改めて考えてみると意図的な匂いをとても感じる。

鉄道や駅、線路というものは、人と人とが行き交う社会の縮図、体制やシステム、総じて自分の意志ではどうすることもできないオートマチックなもののイメージだ。さらに拡大解釈すれば、それは運命に近い意味を持っているのかもしれない。

またその一方で、「始発・終点」は生と死、「乗り換え」は人生の選択といったように、私たちひとりひとりが各々の人生に準えることができるような暗喩も、これらは多分に持ち合わせている。このように、私の周りの世界と私自身、そんなマクロとミクロの両面においてテーマを語りやすい、非常に特殊で魅力的なモチーフともいえるだろう。

おそらく、みんなの思いや期待でパンパンに膨らんで、大きくなりすぎてしまったこの物語の着地点を、制作者たちは一個人の感慨や情緒、精神世界上の私的な見解として語り切るのではなく、誰かと共有可能なかたちある何かに置き換えて、それを介して観る側の我々の物語としても還元させたかったのではないだろうか。

旧劇のような、自己完結の果てにある「この世のどこか」ではなく、宇部新川駅という私たちのいる「ここ」と地続きの場所で物語を閉じることで、答えはどこかではなく、ここにあるのだと言いたかったのかな。そんな風に思っている。

想いと重み

あとちゃんと書いておきたいのは、宇多田ヒカルがめちゃくちゃいい仕事をしているということだ。なにあの歌。イントロが流れ出した瞬間、たぶん全編を通して一番ゾクゾクっとした。あの歌がなければ、こんなにググっと完成しなかったんじゃないかな。序の時は、ずいぶんと「っぽいチョイスだなあ」くらいにしか思ってなかったけど、まさか最後の最後で完全に持っていかれるとは。エヴァ、そして宇多田ヒカル。同じ時代に生まれ生きてきたことを幸運に思う。

観劇後にYouTubeで「One Last Kiss」のミュージックビデオを観た。こちらを見たり見なかったりする宇多田ヒカルが延々と歌ったり笑ったりしている映像で、目が合うとなんか軽くドキッとするわけだが、観ていると誰かの記憶を覗いているような、そんな不思議な感覚にとらわれる。「忘れがたい記憶」というものは、たぶんこういう顔をしているのかもな。そんなことを思わせてくれる。

きっと誰にでもある、家族、友人、恋人、関係の深い人との忘れられない思い出、記憶。それは総じて甘美なもので、ましてそれがもう二度と会えない人だったり、亡くなった人とのものであれば、なおさら美しく映ることだろう。

そして、私はその美しさが時々とても残酷に思えるのだ。思い出が美しければ美しいほど、失った時の喪失感は深くなり、結果的に思い出に苦しめらるようなことになりそうで。抱える想いが重たければ重たいほど、その足取りもまた重たくなっていきそうで。

では、誰も愛さないようにすれば、大切な人がそもそもいなければ、私たちは記憶に縛られることなく、生きやすくなるのだろうか?いつまでも心の平穏を保てるのだろうか?

いや、それはナンセンスというものだろう。アントニオ猪木に「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」とビンタされてもいい。仮に、もしそういった思いや考えで人との関係を断ち切ってしまったら、それはもはや幽霊と一緒だ。我々のいう世界とは、眼前に広がる風景のことだけを指すのではない。目に見えない人と人との繋がりもまた世界だろう。そしてその後者の世界が、私たちを幽霊ではなく、人たらしめている。

Qから登場するDSSチョーカー。シン・エヴァにも出てきたが、あれの意味が今になってようやくわかった気がする。あれは見た目通り「枷」であり「呪い」なのだろう。そしてそれは自分の手では外せず、自分に心を通わせてくれる他者の手でしか外すことができない。これもまた作品のテーマを支えるメタファーのひとつであるなら、エヴァはやはり、誰かとの関係性の中で生きることを肯定しているのだと思う。

だから、たとえいつか想いが重石のようにのし掛ることになっても、それでも歩いていく。そうやって生きることの責任を果たす。それが人間の本分というものだろう。私も遅まきながら、その重みの持つ意味がようやくわかってきたということである。

唇と唇の間の無限

あとひとつだけ。「One Last Kiss」のような、私とあなただけの小さな世界。最も原初的な最小構成の世界。実際に測ってみれば、それはきっと半径1メートルくらいの距離感のはずなのに、そこに無限を感じるのはなぜだろう?それが二人だけの世界だからだろうか?想い合う二人の世界には果てがない?(ロマンチックか)

いや、どれだけ想いあっても、最終的に溶けあうことができないのなら、たとえ1億光年離れていようと、逆に1ミリしか離れていなかったとしても、結局それは無限と変わらないからだろう。宇宙がすっぽりと収まってしまうくらい、考えようによっては私たちの距離はすごくすごく離れている。どれだけ見つめあっても、キスをしても。

でも、そうやってふたりの間にある無限をすこしでも縮めようとする切なさが、そのまま生きることの尊さのようにも感じられるから、きっと私たちはどこまでも離れていていい。だから触れ合うことの喜びはいつも新鮮で、いつまでも忘れることはないのだろう。

生きることは、変わること

さて、恥ずかしいくらいエモく煮詰まってきたので、そろそろ最後にしよう。結局、当初の想定以上にいろいろと書き連ねてきたが、本気になって読み解こう・読み解きたいと思える、我が事のような物語が終わったことに、やはり一抹の寂しさを覚えているのだろうな。こうやっていつまでも筆を置けないことが、何よりもその気持ちの現れである。

なんだかんだで、やっぱりエヴァが好きなんだろう。大きな声で言うとちょっと恥ずかしいけど。Qの時は本当にこれで最後、もう見限ろうと思っていたのに、今は「ありがとう」とさえ思っている。ずいぶんと長い間、あれこれと楽しませてもらったことへ素直に感謝している。

シト新生にブチ切れた日からマルっと約24年。まさかこんな風に思える時が来るなんて思ってもみなかった。24年前の自分に教えたら「まだエヴァ観てんのかよ!(笑)」なんて呆れられそうだけど。

あの日、一緒に徹夜で並んだ友達たちとは、誰とも連絡をとっていない。一体どこで何をしているのだろう?ただ、シン・エヴァを観た日の夜、その中のひとりが夢に出てきた。彼もどこかでシン・エヴァを観て、同じように私のことをちょっとでも思い出してくれているだろうか?

いや、別に思い出してくれなくても全然構わない。むしろ、昔はそうやって誰かの記憶のなかに自分がいることが嫌に思えて仕方なかった。けれど今は、記憶の片隅にちょっとくらい居座って「だーれだ?」なんてクイズを出してみても、まあバチは当たりはしないかな?と、悪戯のように思わないでもない。最近ちょっと図々しくなってきたのかもな。

こんなの、昔の自分が聞いたらビックリするだろう。ぬるくなったもんだと怒るだろうか。でも、これでいいのだ。生きていれば、いろいろなことがある。そう、生きていれば。エヴァを最後まで見届けられなかった人もいる。そのことを最後に記して、この駄文をせめてもの手向けとしたい。

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