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『劇場版 SPEC 結 漸ノ篇』という映画ではないナニカ
エンドロールのない「映画」を劇場で観たのはこれが初めてだと思う。終わるのと同時にパッと客電が付くのは新鮮だったけど、やられてみてよくわかった。エンドロールは映画鑑賞に必要な余韻を楽しむ儀式なんだということが。そしてその余韻に浸る間も用意されていないことがこんなにも悲しいことだということが。
だから自ら映画であるということを放棄したこの作品を私は「映画」と呼びたくない。でも劇場でやっている以上テレビドラマでもない。つまり映画でもテレビドラマでもない「ナニカ」でしかないと思う。逆に言えば、映画にもテレビドラマにもなれなかった出来損ないの物語だ。よって考察も感想もネタバレもへったくれもない。だってそのレベルにまで達していないのだから。
そして本来ならそんなものを世に出すことはとても恥ずかしいことのはずなのに、それを恥ずかしがるどころか「だってこれ、映画じゃありませーん(笑)」とギャグにして開き直ろうとしているから、厚顔無恥もここに極まれりといった感じだ。エンドロールがないというのはつまりそういう言い訳でもあり、そんな自信のなさの裏返しでもあるのだろう。肝心の内容もまったく笑えなかったが、そういう姿勢が一番笑えないし、観客だけでなく映画そのものを舐め切っていると思った。
たとえ前後篇ある続きモノだろうと、それはそれでひとつひとつが作品として楽しめるものでなくてはならないと私は考えている。それがお金を払って劇場に観に来てくれる客へ対しての最低限の約束であり、作り手として示さねばならない誠意ではないだろうか。
それを見失っている、ないしは提示できないと思われる時点でそれはもう失敗作だし、失敗作であるなら本来であれば商業ラインに乗せてはならない。なのに、それもこれもきっと全部わかっていてそれでもリリースしているわけなのだから、これはもう観てる人全員をバカにしていると思われても仕方ないだろう。
思えば「翔」の時から暗雲は立ち込めていた。そしてテレビシリーズからのファンを「天」で思いっきり期待を裏切って、この前の「零」で改めてひどくガッカリさせて、そして今回で決定的に幻滅させてくれた。私はSPECというドラマのファンだった。こんなエントリーを本気で書くぐらい楽しめていた。なのに今はこの物語に携わる含めすべての人に対しての不信の念が拭えないし、憤りしか感じることができない。なまじ好きだった分、本当に残念でならない。
<追記:結局『爻』も観に行きました。>