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そこにいる下品な自分 – 中島哲也監督『渇き。』感想
個人的にこの夏最大の注目作だった中島哲也監督の『渇き。』を観てきた。ちなみに原作は未読。世間の評価は大方の予想通りというか、やっぱりいろいろと賛否両論あるようで、レビューサイトなどを見てみるとずいぶん評価が割れている。だいたいが☆ひとつか☆五つのどちらかといった感じだ。でも私はそういうタイプの映画が好きで、そういう映画のレビューを読むのが好きだ。みんなが何をどう感じたかを知るのは楽しい。
そもそも、みんながみんな☆をいっぱいつけていて評価の平均点が高い作品というのは、実際のところ本当におもしろいのだろうか?とか考えてしまう天邪鬼なのだ。別に工作員がどうのこうのと疑っているのではなく、みんながみんな同じような方向で感想がまとまるというのは、それはそれでつまらないと言えないこともないと思う。
とはいえ、ただただ攻撃的なだけの愛のない酷評レビューをいくつも読んでいると、わかってはいるつもりなのだが、それでもふつふつと憤りみたいなものも湧いてくるわけで。なので自分の感想を書く前に、まずはそのあたりについてちょっと噛みつかさせてもらいたい。
これもまた現実の続き
この映画、確かにセクシャルでバイオレンスなシーンのオンパレードなのだが、だからといって「最悪最低の映画!」とか「気分が悪くなった!」などとレビューサイトに書き散らすのはいかがなものだろう。そんなの、カレー屋に行って激辛カレーを注文しておきながら「この店のカレー、辛すぎて食べられない!」と言ってることと何も変わらない。しかも向こうは端から自分で「劇薬」と銘打ってるわけなんだから、そこんところは諸々承知の上で観に行きましょうよと。
だいたい、実際のところそこまで劇薬ってわけでもない。確かに人はバンバン死ぬわ、血はブシュブシュ流れるわ、イケないクスリも出てくるわで、反社会性この上ないように見える。でもこれって別に不思議の国の物語じゃない。私たちの社会の現実でもあるのだ。
脱法ハーブによる事件や事故が連日のように報道され社会問題化している昨今、麻薬は決してスクリーンの中だけの出来事ではない。この映画を「観なきゃよかった」なんてこき下ろしている人たちは、それらの実際にあった事件に対してどんな感情を抱いているのだろうか。もしかしたら自分の世界とはまったく関係のないテレビの中の出来事とでも思っているのだろうか。
物語はモラルを喰い破るか
また、なかには「こんな危ない映画を高校生割引で観せようとするなんて配給会社は何を考えているんだ!」と怒っている人もいる。彼らは高校生くらいの若者は善悪の線引きもできない子供だと思っているのかもしれないが、自分が高校生だった時、はたしてそんなことあっただろうかと思い出してもらいたい。
おそらく、いや間違いなく、越えてはいけない一線くらいわかっていたはずだ。だからそれでも越えるというのは、そのあたりを全部わかった上での行動と捉えていいだろう。そんなのはたとえ何がどうであれ、遅かれ早かれという時間の問題であり、他でもない本人の問題というものだろう。物語にその責任を負わせるのはお門違いだと思う。
それに、少なくとも私はこの映画にその一線を越えさせるほどのパワーは感じなかった。でもそれは極々当たり前のことで、あらゆる物語に共通していえることだろう。だいたい、これがもし本当にモラルまでをも喰い破るようなものだとしたら、それはもうとんでもなくヤバい。もはや人を壊し殺す毒、それこそドラッグだ。残念ながら、そして幸いなことに、そんな物語とは今まで出会ってこなかったし、これから出会うこともないと思う。
不快で心地良いドライブ
※以下はネタバレを含みます
さて、ここからは作品の内容についての感想をざっくばらんに書いていきたい。
私はこの映画、とりあえず深いこと考えずに主人公の藤島(役所広司)のクズっぷりを笑ってみればそれでいいんじゃないのかと思った。実際ちょっと笑ってしまったし。元妻の桐子(黒沢あすか)の父と電話で話すシーンとか、森下(橋本愛)と車のなかで小競り合うシーンとか。あと松永(高杉真宙)の母親を「クズの親はやっぱりクズだなあ〜っ!」とかいって罵倒しまくるシーン。観た人ならきっと誰もが「お前が言うな!」とツッコミを入れてたことだろう。
そうやって、自分のことを一切省みないクズ男が汚らしく唾と汗と血を撒き散らしながらがむしゃらに突っ走る。それはただただ不快なはずなのに、そのドライブ感を心地良いと感じてしまう品のない自分がいる。そのことに気づく。ここにこの映画のおかしみと狙いがあると思う。
車のメタファー
ドライブ感と書いたが、この作品は車がわりといろいろな場面で登場して、そしてメタファーとして効いていると思う。
まず、藤島の愛車である年季の入った日産グロリア。これがまあ、ものの見事に上映時間の経過とともにボッコンボッコンなっていくのだが、言うまでもなくこれは藤島自身のメタファーである。そして半壊状態でもまだ走る彼らの不死身っぷりは、この映画が理屈抜きのファンタジーであることを暗に物語っている。
そんな藤島グロリアは作品内で三回突撃をかましている。一つめは妻の熱烈濃厚浮気現場(これもやっぱり車のなか)にサイドからドッカーン!二つめは自分を捕まえようと追いかけまわすヘラヘラ顏の元後輩刑事・浅井(妻夫木聡)の車に、これまたサイドから不意打ち気味にドッカーン!
そして三つめも浅井で、ショッピングモールの屋上で正面から生身の浅井に直接ドッカーン!これ、浅井がロケット花火みたいに垂直方向へ不自然に吹き飛んでいって、この映画の一番の笑いどころみたいになっているのだけど、ここで作り手側が決定的に「つまりこれってこういう映画なんですよ」と言っているように聞こえる。そう、これはギャグなんですと。
これ以外にも車のシーンがとても多い。元担任の東(中谷美紀)が加奈子(小松菜奈)を殺すのも車(東はシングルマザー?だとしたら親子二人家族で乗るにしては持て余しそうなデカめのSUVからは、食うには困っていないある程度の裕福さと、見かけによらずアクティブな性格が覗いてみえる)のなかだし、藤島が東に事の真相を追求するのも、そして娘と同じように殺されかけるのもやっぱり車のなかだ。
他にも、例のショッピングモールの屋上に愛川(オダギリジョー)が乗ってきたベンツのトランクには加奈子じゃなくてチョウ(康芳夫)の死体が放り込まれているし、愛川の奥さんは自分の赤い車の助手席に縛り付けたられたままパーン!だし。
では、なんでこんなにも「車」なのか。全部が全部じゃないが、この作品において車というのは最小で最大のパーソナルスペース、つまり個の輪郭であり、いうなれば心なんだと思う。だから車の中とはそのものずばり心の中で、誰かの車に乗り込むことは相手の心の中に踏み込んでいくことなんだろう。
ラストシーンについて
衝動的とはいえ加奈子を殺してしまった東の行動が母親の愛情ゆえだというのなら、あの途方もない雪山の中から娘の遺体を本気で掘り起こそうとする藤島の執念もまた父親の愛情と呼べるものに他ならない。
横で涙を浮かべながらそれをみつめる東は、叫ぶようにスコップを振るう藤島の姿に自分と重なるものをみつけたのではないだろうか。だからあれは身に降りかかった逃れることのできない絶望だけではなく、子を持つ親としての心が共鳴して流した涙でもあると信じたい。
下品な自分との付き合い方
私たちは大なり小なり誰しもが汚くて下品な世界を覗いてみたいという欲望を抱えている。そしてそういった欲望をみたしてくれるメディアにはふたつのタイプがあると思う。
ひとつは、やんわりと慇懃無礼にアプローチしてくるタイプ。大切なお客様の機嫌を損ねないように「いえいえ、お客様は決してお下品なんてことはございません!」と言葉巧みに接してきて、客側もそれがマナーだと思っている。しかし実のところはお互い心のなかで馬鹿にしあっていたりする。テレビのワイドショーとかはこのタイプだろう。
もうひとつは完全に開き直っているタイプ。そこに確かなマーケットがあるんだから徹底的に自分たちのパフォーマンスをすればいいと考えるピエロの皮を被ったプロフェッショナルたちで、客側もそのプロフェッショナルなパフォーマンスにこそお金を払う価値があると考えている、ある意味シビアなプロフェッショナルたちだ。東スポとかがこれにあたるだろうか。
ではこの映画はどっちかというと、「今日来た君たちは例外なく下品なのよ」と清々しいまでに言い放っている後者の開き直りタイプ。とても正直だから、こちらも正直に「もちろんそうですとも!」と開き直る図太さを持ちあわせていないと例外なく面食らうことになる。「な、なんだこの店は!?マ、マナーがなっていないじゃないか!!」と怒りたくなる。
『告白』が賞を獲っちゃったりと評判が良かったりしたせいで、本来ならばこんな下品な作品はスルーするはずのお上品なお客様が集まりすぎたのだろう。かく言う私も『告白』がおもしろかったから期待して足を運んだひとりで、だからやっぱり面食らった。でもおもしろかったというのも事実で、そこに妙な敗北感を覚えたから悔しくてこんな文章をたらたらと書いている。
そう、何か見透かされた気がしたのだ。例えば松永の母親のいかにも生活保護を受けていますみたいなだらしないキャミソール姿をみて「あー、こんな親だから子供がああなるんだよー」とかって、藤島とまんま同じようなことを思っちゃったりする浅はかな自分を。そして、そういう自分より弱そうな者を見つけて安心する、そういう弱さを自分も少なからず持っていることへの無自覚さを。
だから、この映画に星ひとつと汚い言葉を投げつけて、自分の真っ白いキャンバスを穢されましたって顔をするような人たちのように逃げたくないのだ。かといって、星を五つつけて大絶賛できるほど下品にもなりきれそうにない。誰にも触れて欲しくないこの下品さをどうやって飼い慣らせばいいのだろう。それがまだよくわからない。なのでとりあえず今はこうやって必要程度にそれを自ら暴いたり晒したりして、忘れないようにそっとここに刻むだけにしておきたい。