KOERU.JP https://koeru.jp THE PRACTICE OF TRANSCEND ONESELF Fri, 03 Sep 2021 02:20:50 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=5.8.9 36105365 特別でない、ありふれた自分を許そう – 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』感想 https://koeru.jp/2021/04/shin-evangelion/ Sat, 03 Apr 2021 07:08:29 +0000 http://koeru.jp/?p=336 あなたにはあなたのエヴァがあり、私には私のエヴァがある。そして、それでいいんだろう。エヴァを最後まで見届けて浮かんだ感想の第一声として、そんなことだった。はたして、あなたはどうだったろうか。私のエヴァはちゃんと終わった。…

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あなたにはあなたのエヴァがあり、私には私のエヴァがある。そして、それでいいんだろう。エヴァを最後まで見届けて浮かんだ感想の第一声として、そんなことだった。はたして、あなたはどうだったろうか。私のエヴァはちゃんと終わった。この日を迎えられてよかったと素直に思う。本当に。なんなら大満足だ。大きな声で言うのはちょっと恥ずかしいけど。

だからなのだろうか、「○○とは何だったのか?」的な、内容や謎についての考察に、もはや意味などあるのだろうか?なんて、そんな生意気なことさえ思ってしまう。いや、知ろうとすることは自由だし、なんならとても正しい。むしろ、誰かの考察を読んだり、誰かと感想を共有することこそがエヴァという作品の最大の醍醐味だとも思うのだ。

ただ、今の自分にとっては、今回の自分に限っていえば、ネットのレビューを読み漁って情報を補完することよりも、この2時間30分の間に湧き上がった数々の断片的な想いや感情を、こうして誰の声も聞こえないところで思い返して閉じ込めておくことの方が大事なように感じている。

なので、今はまだ誰の何のレビューも読んでない。そのうち程よくこの火照りが醒めるだろうから、それはその時まで楽しみにとっておこう。・・なんて思っていたけど、いや、このまま読まないかもしれない。

みんなの意見や見方に興味はあるけど、とりあえず今は必要だとは思わない。このまま純然たる自分の想いだけを、空気にさえ触れさせず、ホルマリン漬けみたいに保存しておきたい。そんな大したものじゃないかもしれないけど。今はそんな気持ちだ。

これまでのエヴァとの思い出

今作はやはりシリーズのラストということで、観る前からいろんなことを思った。この25年間の思い出。否が応にも振り返らざるを得ない。ビデオテープで観たテレビシリーズ。思春期の頃のこと。アニメイトでネルフマークのついた財布を買ったこと。公開初日に徹夜で並んだシト新世。あの冷たい雨の夜のこと。そして朝イチで観てブチ切れたこと。

その反対に、公開終了間際に何の期待もせず観に行った旧劇。そして誰もいない劇場でひとり途方に暮れたこと。そこでエヴァとの縁は切れると思っていたのに、数年後に今度はパチンコのエヴァに激ハマりしたこと。なんかいろいろと思い悩んでいた時代にふと旧劇を見返して、妙に感動したこと。なんとなくそこでエヴァとは縁を切れそうな気がしていた。

そのうち、また新しく劇場版が始まった。その頃にはもうエヴァは立派なポップカルチャーで、なんだか少しずつ離れていくような寂しさ。破は今はなき新宿ミラノ座で観た。帰りのマクドナルドでこんなのエヴァじゃないと悪態をついた。そしてQ。これはこれでふざけるなとブログで悪態をついたことは、まだ記憶に新しい(とはいえもう9年前だが)。

こうして振り返ると、TV版のラストを観た20数年前から、ずーーっとエヴァに対して怒っている。文句ばかり言っている。終始楽しく観られたのは新劇の序くらいなものだ。たぶん総じて期待しすぎていたのだろう。

実際、エヴァに対しては、他のアニメや漫画には抱かないような、特別な何かを求めてしまいがちだ。そしてそれは、ファンの期待を裏切りまくってきたからこそ背負う羽目になった、エヴァ自身の責任ともいえなくないが、その一方で、私も私で過度に熱くなっていた部分もあったと思う。

ただ、見方を変えれば、それだけの熱意をもって、エヴァンゲリオンという作品に向き合えていたのだと言っていいだろう。これまでの長い間ずーーっと。だから、もういい大人になったと思っていたQの頃だって、まだまだ少年の気持ちでもって真っ直ぐ向き合っていたということだ。全然大人になれない。それこそ「エヴァの呪い」だ。

大人になるということ

では、シン・エヴァを観終わった今はどうか。ただ一言。「凪」である。内容や結末に対して、これまでのような怒りや憤りはカケラほどもない。最初に述べた通り、今は無事に見届けることができた安堵が心のうちの大部分を占めているが、それを差し引いても、これ以上・これ以外の終着点があるのか?とさえ思える。

なので、もう新しいエヴァが観られないことへの寂しさも皆無だ。不思議なくらいシン・エヴァは、自分にとってのエヴァの最後の1ピースとしてパチンとハマった。

そして、この納得や満足感は、作品自体の力もそうだが、Qの終わりからシン・エヴァ公開までの間に少しずつ、でも確実に年老いていった私自身の変化による部分も少なくないだろう。今の自分だからこその感慨と、そして決着なのだと思う。 十年一昔というが、この約10年間で、私もようやく適切な距離感でエヴァを楽しめる人に成ったということだ。

とにかく今回のシン・エヴァは、最初から肩の力を抜いて,最後まで登場人物たちの気持ちに寄り添えて観ることができたと思う。「うんうん、わかるわ」や「いいこと言うなあ」だったり、「そんなの、もう知ってるわ」だったり。そうやってずっと物語と対話をしていたような気分だ。

もちろん、わからないところはわからない。そしてこれまではそれが「うーん、わからない・・」となり、最終的に怒りの火種になっていたのだろうが、今はそんな「わからない自分」もまた自分であり、そしてそれでいいのだと思える。正直、牙が抜けたみたいで、情けなく感じるところも少しあるが、ただ、これまでみたいに何もかもわかろうとするのも、それはそれでなんだかとても傲慢なように思えてくるのが、最近の気分だ。

「分を弁える」という言葉がある。身の程を知るということだ。別に自分を卑下するというわけではない。わからないことがあれば、ああ、まだまだ勉強すべきことは多いなと、素直に認められる自分がここにいるということだ。余計な力が抜けたニュートラルな状態。そう、まるで凪の海のように。

たぶん自己愛が肥大化していたのだろう。そして、それが自らの成長を止めてしまう「エヴァの呪い」のようなものだったとしたら、大人になるということは、許すことなのかもしれない。特別でない、ありふれた自分を許そう。そんな風に思えるようになった自分が今ここにいる。

なぜ鉄道や駅なのか?

書きたいことは書けたので、もうこれで終わってもいい気分だけど、書いているうちにエンジンがかかってきたので、観ていて頭に浮かんだものへの読み解きなどもせっかくなので書いておきたい。

今回のシン・エヴァはご存知の通り、鉄道や駅が重要なモチーフになっていて、物語のなかに散りばめられている。キービジュアルもずっと線路の絵であったし、第三村の共同浴場や図書館が列車の中にあることも、改めて考えてみると意図的な匂いをとても感じる。

鉄道や駅、線路というものは、人と人とが行き交う社会の縮図、体制やシステム、総じて自分の意志ではどうすることもできないオートマチックなもののイメージだ。さらに拡大解釈すれば、それは運命に近い意味を持っているのかもしれない。

またその一方で、「始発・終点」は生と死、「乗り換え」は人生の選択といったように、私たちひとりひとりが各々の人生に準えることができるような暗喩も、これらは多分に持ち合わせている。このように、私の周りの世界と私自身、そんなマクロとミクロの両面においてテーマを語りやすい、非常に特殊で魅力的なモチーフともいえるだろう。

おそらく、みんなの思いや期待でパンパンに膨らんで、大きくなりすぎてしまったこの物語の着地点を、制作者たちは一個人の感慨や情緒、精神世界上の私的な見解として語り切るのではなく、誰かと共有可能なかたちある何かに置き換えて、それを介して観る側の我々の物語としても還元させたかったのではないだろうか。

旧劇のような、自己完結の果てにある「この世のどこか」ではなく、宇部新川駅という私たちのいる「ここ」と地続きの場所で物語を閉じることで、答えはどこかではなく、ここにあるのだと言いたかったのかな。そんな風に思っている。

想いと重み

あとちゃんと書いておきたいのは、宇多田ヒカルがめちゃくちゃいい仕事をしているということだ。なにあの歌。イントロが流れ出した瞬間、たぶん全編を通して一番ゾクゾクっとした。あの歌がなければ、こんなにググっと完成しなかったんじゃないかな。序の時は、ずいぶんと「っぽいチョイスだなあ」くらいにしか思ってなかったけど、まさか最後の最後で完全に持っていかれるとは。エヴァ、そして宇多田ヒカル。同じ時代に生まれ生きてきたことを幸運に思う。

観劇後にYouTubeで「One Last Kiss」のミュージックビデオを観た。こちらを見たり見なかったりする宇多田ヒカルが延々と歌ったり笑ったりしている映像で、目が合うとなんか軽くドキッとするわけだが、観ていると誰かの記憶を覗いているような、そんな不思議な感覚にとらわれる。「忘れがたい記憶」というものは、たぶんこういう顔をしているのかもな。そんなことを思わせてくれる。

きっと誰にでもある、家族、友人、恋人、関係の深い人との忘れられない思い出、記憶。それは総じて甘美なもので、ましてそれがもう二度と会えない人だったり、亡くなった人とのものであれば、なおさら美しく映ることだろう。

そして、私はその美しさが時々とても残酷に思えるのだ。思い出が美しければ美しいほど、失った時の喪失感は深くなり、結果的に思い出に苦しめらるようなことになりそうで。抱える想いが重たければ重たいほど、その足取りもまた重たくなっていきそうで。

では、誰も愛さないようにすれば、大切な人がそもそもいなければ、私たちは記憶に縛られることなく、生きやすくなるのだろうか?いつまでも心の平穏を保てるのだろうか?

いや、それはナンセンスというものだろう。アントニオ猪木に「出る前に負けること考えるバカいるかよ!」とビンタされてもいい。仮に、もしそういった思いや考えで人との関係を断ち切ってしまったら、それはもはや幽霊と一緒だ。我々のいう世界とは、眼前に広がる風景のことだけを指すのではない。目に見えない人と人との繋がりもまた世界だろう。そしてその後者の世界が、私たちを幽霊ではなく、人たらしめている。

Qから登場するDSSチョーカー。シン・エヴァにも出てきたが、あれの意味が今になってようやくわかった気がする。あれは見た目通り「枷」であり「呪い」なのだろう。そしてそれは自分の手では外せず、自分に心を通わせてくれる他者の手でしか外すことができない。これもまた作品のテーマを支えるメタファーのひとつであるなら、エヴァはやはり、誰かとの関係性の中で生きることを肯定しているのだと思う。

だから、たとえいつか想いが重石のようにのし掛ることになっても、それでも歩いていく。そうやって生きることの責任を果たす。それが人間の本分というものだろう。私も遅まきながら、その重みの持つ意味がようやくわかってきたということである。

唇と唇の間の無限

あとひとつだけ。「One Last Kiss」のような、私とあなただけの小さな世界。最も原初的な最小構成の世界。実際に測ってみれば、それはきっと半径1メートルくらいの距離感のはずなのに、そこに無限を感じるのはなぜだろう?それが二人だけの世界だからだろうか?想い合う二人の世界には果てがない?(ロマンチックか)

いや、どれだけ想いあっても、最終的に溶けあうことができないのなら、たとえ1億光年離れていようと、逆に1ミリしか離れていなかったとしても、結局それは無限と変わらないからだろう。宇宙がすっぽりと収まってしまうくらい、考えようによっては私たちの距離はすごくすごく離れている。どれだけ見つめあっても、キスをしても。

でも、そうやってふたりの間にある無限をすこしでも縮めようとする切なさが、そのまま生きることの尊さのようにも感じられるから、きっと私たちはどこまでも離れていていい。だから触れ合うことの喜びはいつも新鮮で、いつまでも忘れることはないのだろう。

生きることは、変わること

さて、恥ずかしいくらいエモく煮詰まってきたので、そろそろ最後にしよう。結局、当初の想定以上にいろいろと書き連ねてきたが、本気になって読み解こう・読み解きたいと思える、我が事のような物語が終わったことに、やはり一抹の寂しさを覚えているのだろうな。こうやっていつまでも筆を置けないことが、何よりもその気持ちの現れである。

なんだかんだで、やっぱりエヴァが好きなんだろう。大きな声で言うとちょっと恥ずかしいけど。Qの時は本当にこれで最後、もう見限ろうと思っていたのに、今は「ありがとう」とさえ思っている。ずいぶんと長い間、あれこれと楽しませてもらったことへ素直に感謝している。

シト新生にブチ切れた日からマルっと約24年。まさかこんな風に思える時が来るなんて思ってもみなかった。24年前の自分に教えたら「まだエヴァ観てんのかよ!(笑)」なんて呆れられそうだけど。

あの日、一緒に徹夜で並んだ友達たちとは、誰とも連絡をとっていない。一体どこで何をしているのだろう?ただ、シン・エヴァを観た日の夜、その中のひとりが夢に出てきた。彼もどこかでシン・エヴァを観て、同じように私のことをちょっとでも思い出してくれているだろうか?

いや、別に思い出してくれなくても全然構わない。むしろ、昔はそうやって誰かの記憶のなかに自分がいることが嫌に思えて仕方なかった。けれど今は、記憶の片隅にちょっとくらい居座って「だーれだ?」なんてクイズを出してみても、まあバチは当たりはしないかな?と、悪戯のように思わないでもない。最近ちょっと図々しくなってきたのかもな。

こんなの、昔の自分が聞いたらビックリするだろう。ぬるくなったもんだと怒るだろうか。でも、これでいいのだ。生きていれば、いろいろなことがある。そう、生きていれば。エヴァを最後まで見届けられなかった人もいる。そのことを最後に記して、この駄文をせめてもの手向けとしたい。

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夜空の星々、永遠の光と闇 – 『TRUE DETECTIVE』シーズン1感想 https://koeru.jp/2018/04/true-detective-season1/ Wed, 11 Apr 2018 10:43:44 +0000 http://koeru.jp/?p=301 随分と前の話になるのだが、まずクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を劇場で観たのだ。勿論ちゃんとIMAXで。感想がうまくまとまらないのだが、一言でいえば、まあ最高だった。心の深いところから「ウォー!」という声にな…

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随分と前の話になるのだが、まずクリストファー・ノーラン監督の『ダンケルク』を劇場で観たのだ。勿論ちゃんとIMAXで。感想がうまくまとまらないのだが、一言でいえば、まあ最高だった。心の深いところから「ウォー!」という声にならない歓声が湧き上がってくるくらい。前作の『インターステラー』がいまいち不完全燃焼だった私としては、『ダンケルク』は手放しで「ウォー!ノーラン、サンキュー!」だったわけである。はい。

その翌日。『ダンケルク』の余韻を引きずっていた私は、何とはなしにHuluをチェックしていた時に思い出す。マイリストのなかで眠っていた『TRUE DETECTIVE』の存在を。「ダンケルク→クリストファー・ノーラン→インターステラー→マシュー・マコノヒー」という単純な連想ゲームだった。

意気込んで1話と2話を観たあとの感想としては、「うーん、思っていた通りおもしろそうだけど、思っていた以上に地味だな…」というのが正直なところ。この時点ではイマイチのりきれなかったので、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす(最近めちゃくちゃハマっている)。

その翌日。3話と4話(例の長回しすごい)を観て、「これ、けっこう面白いかも…」となり、続きがだんだんと気になりだすのだが、でも、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす。このドラマ、一話観るだけでもけっこう疲れる。適度に休憩を挟んで気分転換をしたくなる感じ。

その翌日。5話と6話を観て、6話の最後に「キタキター!」となる。テンションは既に最高潮。でも、ここで観るのをいったん止めてスプラトゥーン2をやりだす。別にスプラトゥーンをやりたさすぎるというわけではなく、もう残り二話しかないと思うと、観るのがもったいなく思えてきて止めたくなる。一番美味しいところを食べる前に、まずは深呼吸。性分だ。

その翌日。満を侍して残りの7話と8話を観て、唸る。そして思う。「どうしよう…ダンケルクよりも面白かったかも…」と。まあ、タイプもジャンルも全然違うので単純な比較は出来ないのだろうけど、劇場で涙を流しまくった『ダンケルク』よりも、この『TRUE DETECTIVE』の方が自分のなかに決定的に残り続けそうな何か、誰かに伝えたい特別な何かを感じた。

実際に、夏に観たドラマのことを、秋が過ぎて冬になり、そして春になった今でもこうやって、気持ちは何かを書き残そうとしている。そしてたぶんそれは最終話、マシュー・マコノヒー演じる主人公ラスト・コール刑事のある台詞がずっと澱のようにどこかで引っかかっているからなのだろう。

「それは『光』対『闇』の物語だ」

『光』と『闇』

この台詞を聞いた時、何故か瞬間的に『スター・ウォーズ』のことがパッと頭に浮かんだ。とは言いながらも、実はあまり『スター・ウォーズ』のことは詳しくなく、恥ずかしながらちゃんと最初から最後まで観たことがあるのは『エピソード7/フォースの覚醒』だけだったりするのだが。

そんな『スター・ウォーズ』初心者なので、あまり生意気な言及は避けるが、それでも素人考えを言わせてもらえるならば、『スター・ウォーズ』という作品群が世界中の人々を長きにわたって魅了しつづけているのは、おそらくそれが『光(ジェダイ)』対『闇(シス)』という古からの二元論を非常にシンプルかつキャッチーに描いているからではないだろうか。

光と闇の戦いを扱った物語を挙げていったら枚挙に暇がないが、そのなかでも『スター・ウォーズ』は光(ライトサイド)と闇(ダークサイド)の差別化やビジュアライズが非常に巧みだと思う。闇という概念そのものを体現するかのようなダース・ベイダーの不穏な外見や、ジェダイとシスで違うライトセイバーの色(ジェダイは青または緑、シスは赤)など、ジョージ・ルーカスが作り出した光と闇の表現はとても端的で、端的だからこそ誰にでもわかりやすく伝わるのだろう。

このまま話が『スター・ウォーズ』に逸れてしまいそうなので引き戻すと、この光と闇という二元論は、先に述べた通り、まったくもって手垢のついた題材に違いないが、逆を言えば、それはどんな時代においても語らずにはいられない、我々にとって永久不変のテーマでもあるのだろう。もっと言えば、すべての物語は多かれ少なかれ『光』対『闇』のドラマであるとさえ言えなくもない。

この『TRUE DETECTIVE』という作品も、表面上は連続殺人事件を追う刑事もので、刑事(光)と犯人(闇)の対決なのだが、この作品がただの推理サスペンスで終わらないのは、その両者の対決を物語の主軸にしながら、また同時に登場人物たちひとりひとりの『光』対『闇』の葛藤を、絶妙の距離感でそれに併走させているところだろう。本来ライトサイドである刑事たちは刑事たちで、自分のなかに巣食う宿痾のような『闇』を抱えている。彼らは犯人(闇)を探し当てる過程のなかで、互いにその自分の中の『闇』も曝け出し、時には激しくぶつけ合わせ、そしてこの長い旅(ここは敢えて「旅」と言いたい)の果てで、ようやく何かを乗り越える。

旅の終着点となるこの物語の最後のシーンは、ラストが入院している病院の上に広がる夜空である。そこには小さな星たちがひっそりと瞬いていて、それを見上げるもう一人の主人公、ウッディ・ハレルソン演じるマーティ・ハート刑事がこう言う。「でも、今は光が優勢だ」と。

はたして、観た方々はこのマーティの言葉をどう解釈し、何を感じただろうか。かく言う私はというと、全くもって『光』が優勢なようには見えなかったのだ。確かに星が光ってはいるのだが、それよりもまだまだ『闇』の方が広く深そうに思えた。

ただ、そういった見地から一歩離れて考えてみると、ここでマーティ(もしくは脚本家)が言いたいことは、きっとそういうことではないのだろうと感じてくる。大事なのは私と彼ら、一体どちらの見方が正しいのかと、その『光』と『闇』の度合いを見極めたようとしたり、または互いの意見を擦り合わせたりしようとすることではなく、マーティという人間がそう言っているということ、そのもの自体にあるのだろう。そしてそれはまた同時に、誰かがそう言った瞬間にそういう風に映る光景というものが、私たちのこの世界にはあるのかもしれないという可能性の示唆でもあるのだと思う。

そう、これはおそらく「定義する意志」の問題なのだ。たとえそれが『光』と『闇』のような相反する事象であったとしても、こうやって夜空のようにそのどちらもが同時に混在する状況下においては、その優劣の定義は実に難しい。両者の間にある「境界線」はどうしても、そしてどこまでも曖昧だ。しかし、これはこれで、常に新しい議論を挟むことのできる余地(または可能性)が残されているともいえる。であれば、夜空を指差してそれが『光』である、もしくは『闇』であるといった各々の見解は、どんな場合においてもそれを断じようとする者が「その時に立っている場所(心持ちともいえる)はどこか」という条件によって大きく左右されることになるだろう。なので、たぶん答えとしては、どちらも正しく、どちらも間違いである。いや、きっと正誤の問題でさえなく、世に言う「絶対」や「真実」なんてものとかけ離れたところにある「水物」な話なのかもしれない。だから、もしそこに何か拾い上げるべき価値あるものがあるとするならば、それは何かを「決めつけよう」とする意志の方であり、もしくはその意志に基づいて起こる行動そのものにあるだろう。そして、たぶんそういった我々の意志や行動の「出発点」に、人生を賭して目指すべき私たちの境地が実は隠されている。そんな気がする。

ずいぶんと大袈裟な物言いになってしまい、我ながら何を書こうとしているのかよくわからないような部分もでてきたので、このあたりでわかりやすく結ぶとするなら、そう、私は甚く感動したのだ。そしてこの感動は、決して涙が溢れて流れるような類いのものではなく、まるで触れた瞬間から古傷のような疼きを私に刻み遺していったのだと思う。

真実の「静かさ」について

夜空のことを散々語ってきたのだが、実は全編を通して私が一番痺れたシーンは、真犯人と思わしき人物のアジトの前に、ラストとマーティンの車がやってくるところだったりする。車を降りてすぐにラストはマーティンに確信を持って伝える。「ここだ」と。まるで自分にも言い聞かせるかのように、極めて少ない言葉でそっと呟く。

そうなのだ、ここなのだ。真相を一足先に知っている視聴者側の我々はたぶん皆「そう、ラスト!ここ!」と思ったことだろう。ラストはここに辿り着くまでに、数々の代償を払ってきた。それをここまでずっと見せつけられてきた我々としては、どうしてもある種の昂りを抑えることは難しかったりする。

でも、当のラストの「ここだ」には「!」みたいな感嘆詞はついていない。極めて冷静な口調での「ここだ」なのだ。はたして本当にそんなに淡々といられるものなのかと少々疑ってしまう。いくら百戦錬磨の刑事であったとしても。

しかしその一方で、案外そんなものかもしれないように思えてもくるから不思議だ。既知のものに出くわした時、私たちはあまり驚かない。それを確かめる言葉もまた静かであるはずだ。

きっとラストは、この光景を既に知っていたのだろう。真犯人に関する断片的な情報を拾い集めて、それを何度も気が狂うほど頭の中で組み立ててきたその執念は、現実よりも先に真犯人に行き着いていて、あとはこの体をそこに運ぶだけだったともいえる。そして目的の地にようやく立った今、ラストが発する言葉は少ない。

もちろん劇的な感情が爆発してもおかしくない場面ではある。ただ、それが静かであればあるほど、真実というものの受け入れ方としてより自然なように思える。それは真実というものが静かだからなのかもしれない。真実はいつもそこにあるだけで、大きな声で手招きしているわけではなく、道端の石ころのように静かにこっちを見ている。いや、たぶん見てもいない。それが自分の求めている答えかどうか、それを見る我々がいつも決めているだけだ。

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森博嗣『ダマシ×ダマシ』感想 – Xシリーズの寂しさと切なさ https://koeru.jp/2017/08/damashi-damashi/ Tue, 08 Aug 2017 12:16:13 +0000 http://koeru.jp/?p=284 あの『χの悲劇』の衝撃から早一年。感想も満足に書けないまま、ただ時間だけが過ぎてしまった。そして今、こうやってXシリーズの最終巻を読み終わって残ったものは、やはり今回もまた叫びたくなるような衝動だった。すごい。すごいぞ森…

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あの『χの悲劇』の衝撃から早一年。感想も満足に書けないまま、ただ時間だけが過ぎてしまった。そして今、こうやってXシリーズの最終巻を読み終わって残ったものは、やはり今回もまた叫びたくなるような衝動だった。すごい。すごいぞ森博嗣。こんなすごいのを立て続けに読めて、ただただファン冥利に尽きる。

Xシリーズが始まった当初は、このシリーズの立ち位置がさっぱりわからなかった。Gシリーズの刊行ペースがこれで遅れるくらいなら、いまさら新シリーズなんて必要なのだろうか?と疑問さえ抱いていた。でも今、その意味が鮮やかなまでに、これ以上ないくらい美しい着地をみせ、10年という長い時間を超えてようやく森氏の思惑に追いつくことができたような気がしている。これを逃したら書く機会はもうないと思うので、このエントリーでは『ダマシ×ダマシ』を読み解きながら、「はたしてXシリーズとは(私にとって)何だったのか?」を最後に考えてみたい。

「森ミステリィ」の変遷

※以下、途中で森作品全般のネタバレするかもしれないのであしからず。

誤解を恐れずに言わせてもらえば、Gシリーズ、いや、その前のVシリーズの途中くらいから(いやいや、S&Mシリーズの後半くらいから?)、森博嗣の「森ミステリィ」は、いわゆる一般的な「ミステリー」ではない。物語の軸は、全シリーズ通して作中に起こる殺人事件の謎やトリック、そしてその犯人探しであることには違いないのだが、シリーズが進むにつれて作品としての読みどころが、事件の内側や少し外側にいるいつものキャラクターたちの軽妙洒脱な会話や、その根底にある森氏の価値観への比重が高くなり、またシリーズを通して伏線が張られた「大仕掛け」を楽しむもののような、そういう側面が徐々に強くなってきたように思う。

続くGシリーズからは脱ミステリーの流れがより顕著になり、いわゆる「理系ミステリー」の代名詞的存在だった「森ミステリィ」は、次第に「殺人事件を題材にした、森博嗣の哲学や思想に触れるための読み物」のような感じになっていく(そもそも「理系ミステリー」って何よ?という話でもあるのだが)。そして今となっては、既存作品をひとつひとつ読み重ねてきた筋金入りの森ファンにしか存分に楽しむことができないような「森博嗣ファンブック」みたいな内容だなと感じている(少し乱暴めに書いているが、それでも大きく的を外しているということもないだろう)。

かく言う私も、今となっては「森ミステリィ」に対して、作品単位でのミステリー的な要素を必要以上に求めなくなって久しい。キャラクター小説として楽しんだり、森氏の価値観や物事への視線に漠然と共感したりする読書であると思っている。また、この長大な作品群が一体どんなゴールに辿り着くのかを静かに見届けるようなスタンスで、近年の森作品に接しているようなところも大きい。最新刊をずっと講談社ノベルスで追いかけているような森博嗣ファンの方々は、何となくわかってくれると思う。

そういう意味では、冒頭の通り『χの悲劇』と本作『ダマシ×ダマシ』は、まさに我々のようなファンの期待にバシッと応えてくれる佳作であった(あえて「傑作」とは書かないが)。そしてこの感激は、これまで長く追いかけ続けてきたことに対する森氏からのご褒美だと受け止めている。これだから森博嗣はやめられない。繰り返しになるが、すごい。すごいぞ森博嗣。

寂しさについて

というわけで、先ほどは「森ミステリィは今やファンブックみたいなものだ」なんて偉そうなことを書いてはみたものの(まあ、少なからずそう思っているというのも事実なのだが)、だからと言って「もう長い付き合いだから…」と、何の期待もせずに漫然と惰性で読んでいるという部分は、そう考えると実は自分が思っているよりも案外少ないのかもしれない。毎回ある程度はこちらも期待しているし、その期待にある程度応えてくれるのが、やはり森氏の「森ミステリィ」だったりするのだ。

このように、いつも何だかんで楽しませてくれる森作品なのだが、そのなかでも特にXシリーズは前々作『ムカシ×ムカシ』から前作『サイタ×サイタ』と、二作続けて個人的には妙にしっくりくるものを感じていた。そして今回この『ダマシ×ダマシ』を読んでみて、この二作で自分がしっくり感じていたものが何だったのか、少しわかったような気がした。

たぶん私は、森氏の描く「寂しさ」が好きなのだ。きっと、狂おしいほどに。

例えば本作でいえば、小川さんが殺された詐欺師・鳥井信二のアパートを訪れる場面。警察が捜査のためにあれもこれもと持ち出した後のスリッパさえ残されていない部屋で、小川さんはその部屋の冷たさをまず足底で知る。そして、遅れて光る台所の蛍光灯や小さな冷蔵庫といった断片的な光景を拾い集めて、小川さんはここに住んでいた一人の男の人生の寂しさにぞっとするのだ。人間はここまで孤独になれるのかと…。

正直言えば、ありきたりでベタな描写だと思う。でも、これがベタだと感じるのは、たぶん小川さんが「自分も昔こんな部屋に住んでいた」と既視感を覚えることと同じように、私もこの時代から切り外されたかのような部屋の寂寂たる光景を、こんな部屋に一度も住んだことがないにもかかわらず、「寂しさ」という概念のひとつの心象風景として、それを「知っている」と錯覚するからなのだろう。そう、きっと私もたぶんこんな部屋に住んでいたのだと思う。だから、ここにある鳥井の寂しさは、そのまま小川さんの寂しさでもあり、また同時に私の寂しさでもある。もしかしたらそれは、誰しもが人として持ち合わせているデフォルトの「寂しさ」といえるものなのかもしれない。

そんな、寂しさと寂しさの呼応。たぶん寂しさは、その寂しさゆえに他の寂しさに繋がろうとするのだろう。だから人は、この自分の寂しさを誰かの寂しさで確かめようとする。例えば、鳥井の部屋の古いけど汚れのない掃除の行き届いたシンクに、ひとりの男の人格や人生の痕跡を、僅かだが確かに感じることができるのだけど、そこに「確かさ」を見つけてしまうこと自体が、実は寂しさというものの本質なのではないかと私は思う。

どれだけ寂しく孤独に生きていようとも、そしていつか人知れず死んだとしても、私たちは完全な透明になることはできない。最初から何もなかったかのようにこの世から消えることなんて、誰にもできやしないのだ。でも、それが人間の定めというもので、だから本来はそこに絶望も希望もないはずだ。

しかし、私はそこに絶望や希望を感じる。感じてしまう。その時に私は、自分が孤独というものに対して絶望や希望を抱くような人間であることに気づき、今度はそんな自分に対して絶望と希望を抱く。そして、そんな自分という人間の情けなさを心底から恥じたくなるし、それをきつく詰りたくもなるのだが、同時にそんな自分を少しだけ心強く思う。たぶん私にとって孤独は、ただ単に忌み嫌うべきものではなく、きっと影のように常に私のそばに寄り添い、時に強く支えてくれるものでもあると、固く信じているのだ。

切なさについて

少し脱線したが、Xシリーズの後半三作は、そういった人間が本来持ち合わせていると思われる根源的な寂しさに響くような作品だった。そしてラストを飾るこの『ダマシ×ダマシ』は、小川さんや上村恵子(加部谷恵美)の再生と出発の物語だ。そもそもXシリーズ自体が謂わば「小川玲子再生譚」ともいうべきものだったのかもしれないが、その最後の物語をあの加部谷と一緒に紡ぎ出すなんて、一体誰が想像できただろう。

加部谷恵美はGシリーズの主要人物のひとりではあるのだが、いわゆる真賀田四季へと続く「本線」を歩いているキャラクターではない。だから『χの悲劇』で加部谷が出てこなかったことに対して、私としては特別な驚きはなかった。というのも、以前から森氏は「Gシリーズの残り三作は少し雰囲気が変わる」と明言していたことを知っていたので、『χの悲劇』の登場人物表に島田文子しか知っている名前が見当たらないと思った瞬間に、「ああ、やっぱりこれは本当に今までと違うのだな…物語をいよいよ閉じにかかっているんだな…」と、私だけでなく多くのファンの方々が、きっといつもより少しだけ背筋を伸ばしてから読み始めたと思う。そしていつものメンバーが不在のGシリーズを、いつもよりワクワクしながら読み進め、そして衝撃のラストに思わず言葉を失い、その余韻が引ききった後になってようやく、「ああ、もう加部谷や山吹には二度と会えないのかも…」と、急に切なくなったのではなかろうかと想像する。

その加部谷がこのタイミングで、しかもXシリーズに登場したのだから、その驚きときたら、「お!会えてよかった!」や「なんだ、加部谷だったのか〜」なんてものではない。「か、加部谷…!」と思わず抱きしめたくなるような、それは『χの悲劇』のラストとはまた違った種類の感動だった。私の代わりに西之園萌絵がちゃんと加部谷を抱きしめてくれたが、あれはたぶん読者みんなの気持ちを代表してのものなのだろう。

さて、なぜ「上村恵子=加部谷恵美」というトリックだけでここまで感動できたのかというと、それはひとえに我々が『χの悲劇』で海月久介の未来を先に知っていたからだと思う。あれから海月くんは本格的に「本線」の人になっていて、加部谷をはじめ「本線外」の人間にはもはや立ち入りようのない、自らの過酷な運命を果たすために生きていたことが『χの悲劇』で明かされる。「あれから」というのが一体いつを指すのか、時間がジャンプしすぎていてよくわからないが、どこかのタイミングで海月くんはみんなの前から姿を消してしまったのだろう。とはいえ、加部谷たちと出会う以前から、海月くんの背負っている運命自体は何も変わっていないのだから、あの加部谷や山吹たちとの微笑ましい時間こそ、海月くんにとってはむしろイレギュラーなものだったのかもしれない。そんな海月くんにとって「加部谷恵美」という五文字が、今も昔も一体どんな意味を持っていたのかを推し量ることはできないが、きっとそれは懐かしい思い出のひとつとして、彼の記憶から消えずに残ってくれているものだと、『ダマシ×ダマシ』を読んだ後の私たちは、あの朴念仁に対して期待せずにはいられないのだ。

今さら言うまでもないが、加部谷は鳥井信二に海月久介を重ねていた。鳥井が殺された後もなお、小川さんに鳥井についての調査の続行をお願いするのは、知ろうとするという行動だけが、この世界と「彼」を繫ぎとめるたったひとつの絆だと思っていたからだろう。そしてこの「知りたい」という気持ちを強くさせているのは、他ならぬ加部谷のなかの「海月久介」という記憶、思い出だ。

自分が「もういい」と思った瞬間に、たぶん「彼」はこの手からするりと離れ、まるで風船のように無軌道に宙を舞い、程なくして誰も手の届かない虚空の彼方へと消えていってしまうだろう。たぶん加部谷はそう考えている。でも、いつか「もういい」と思って手を離さなくてはいけないことも、賢しい彼女はちゃんと知っている。だからこそ、せめて今だけはとそれを記す。鳥井の部屋の台所のシンクに、鳥井信二という人間の存在を確かに感じたように、そういった「確かさ」の欠片を集めることは、彼女を含め「こちら側」の人間の役目であり、または使命だ。それはこの世界で一番報われない、ともすれば必要のないやさしさで、何なら奢りであるとさえ言える。でも、それもまた「こちら側」の人間に許された数ある特権のひとつであるとするならば、咽ぶほどに生きていることの「生っぽさ」がそこには溢れている。

彼の未来を知っているからこそなのかもしれないが、それでもこの身を窶すほどの切なさは一体何なのだろう?大義名分も世界の理も、一切合切がどうでもよくなるような、人が人を想う気持ちの「わがままさ」と、その永遠性。それは時に呪縛となり、人生を串刺しにしてしまうほどの残酷さも秘めている。ただ、もしそれに囚われたとしても、時の流れとともに薄れ、曖昧然としてくる記憶の残像が、まるで「生きろ」とでも言っているように聞こえる日がいつかきたら、失ったと思っていた心は、失ったと思っていた時間とともに、全部自分のもとへ帰ってくると信じたい。そして、それらをすべてコミコミで、これをまたとない自分の人生であると言いたい。

先ほどXシリーズは「小川玲子再生譚」だと書いた。そしてこの『ダマシ×ダマシ』は、何かを失くしたと思う人が、何かを取り戻す話である。スーパーヒーローも名探偵も登場しないXシリーズが、平々凡々な市井の人たちの話であるのなら、私たちもまた決して特別ではない彼女たちと同じように、何かを失くしても何かを取り戻せるはずだ。たとえそれが当座は騙し騙しのものであったとしても、人はいつしかそれを日常にしてしまう。ああ、なんて愚かで薄情な生き物なのだろう。そしてその逞しさよ。思わず目を背けたくなるほど、人が生まれ変わる瞬間は美しい。それだけはいつまでも憶えておきたいと思う。

新しい箒で

最後に。プロローグで小川さんは自分で買ってきた新しい箒で掃除をしている。そしてエピローグではそれに代わって加部谷が、小川さんに頼まれるでもなく、その箒で自ら進んで掃除をする。どうして?という小川さんの問いに対して、加部谷が「新しい箒があったので」と答える。小川さんはそれを素晴らしいと思うのだけど、私も思わず「あはっ!」と手を叩きたくなるくらいそれに感嘆した。「掃除…それはつまり清算や終幕のメタファか?」なんて深読みしていた自分が恥ずかしくなるほど、まったくもって清々しいまでに森博嗣の世界である。

新しい箒で始まり、新しい箒で終わる。そしてまた始まるのだ。寂しさも切なさも超えて、まるで魔法のように。

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数あるDAPのなかから私がAK240を買った理由・おすすめする理由 https://koeru.jp/2015/06/ak240-review/ Fri, 26 Jun 2015 13:44:44 +0000 http://koeru.jp/?p=248 iriverのAstell&Kern AK240を購入してからもうすぐ3ヶ月が経とうとしている。ここらでレビューのひとつも書いてみたいのだが、実際に使ってみた使用レビューというよりは、なぜ数あるデジタルオーディオ…

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iriverのAstell&Kern AK240を購入してからもうすぐ3ヶ月が経とうとしている。ここらでレビューのひとつも書いてみたいのだが、実際に使ってみた使用レビューというよりは、なぜ数あるデジタルオーディオプレイヤー(以下DAP)のなかからAK240を選ぶに至ったのか、その理由を中心に書いてみたい。とはいえ、AK240に限った内容というわけではなく、今現在新しいDAPの購入を検討している方全般にとって何らかの参考材料になるのではないかと思うので、興味があればしばしの間、できれば最後までお付き合いいただけると幸いだ。

これまでの環境について

COWON J3の教訓

まずこのDAP探しの旅はかれこれ一昨年、2013年の12月まで遡る。愛用していたCOWON J3のイヤホンジャック部分の故障で片耳しか音が聞こえない状態になってしまったのだ。

実はこのJ3、購入時からあからさまな初期不良で、箱出し直後なのに「カタカタ…」と中から何かが外れてるっぽい音が鳴る代物だった。おいおい待てと。いま思い出しても苦々しい記憶がまざまざと蘇ってくるのだが、とにかくAmazonで買ったので購入店にすぐさま持ち込むというわけにもいかず、サポートに直接問い合わせして、なんだかんだで手もとに戻ってくるまでに2週間くらいかかったと思う。

さすがに戻ってきたものについては問題なかったが、この一件でネットで家電製品を買うことのリスクと、海外メーカー、特に噂には聞いていた中韓メーカーのクオリティーをまざまざと見せつけられたので、今回のDAP選びの際にもiriverはCOWONと同じ韓国メーカーということでいの一番に外していたのだが、結果的には買ってしまったので、いやはやまったく信念が足りない軟弱者だと自分でも思うのだが、しかし言い換えるなら中韓メーカーに対する不信感さえも乗り越えるほどの魅力がAK240にはあったということだろう。

ちなみにここだけはその時の教訓を活かそうと、ネットではなくリアル店舗で直接購入した。今のところ初期不良っぽい症状もなく快適に使えているので本当にホッとしている。

またまた壊れたJ3を直すべき?

そんなわけでJ3が不調になり、さてさて困ったわけである。まず最初に浮かんだのが、この愛機を改めて修理するという選択肢なわけだが、無償修理期間はとうに過ぎているのでもちろん有償修理となる。では、その費用はだいたいどれくらいかかるものなのかとネットで「COWON J3 修理」と検索したのだが、探しても探してもいやはや全然情報が出てこない。ならばいっそのことサポートに問い合わせてみるかと思ったがそれも面倒なので、ちょっと頭のなかで軽くそろばんを弾いてみた。

まず、J3のバッテリー交換だけでもだいたい5,000円くらいなので、ジャック部分の交換くらいとはいえ余裕で1万は越えてくる気がする。そして、せっかくサポートに送るならついでにバッテリーも交換したいから、合わせると最低でも1万5,000円はいくだろう。うーん、3万くらいで買ったものを半値で修理するというのもなんだか面白くない。だったらプラスαして新しいものを買った方がいいのでは?というわけで、新しいDAP購入を考えはじめたわけである(この時はまだこの買い替えが1年以上かかる旅だと思ってもみなかった…)。

NW-ZX1を聴いてみる

それがちょうどSONY NW-ZX1が発売された頃で、当時の私はというと、やっぱり「7万もするウォークマンとか本気かよ…」と思うひとりだった。視聴はしたものの高嶺の花、選択肢に入れることはできなかった。ただ、プロダクトとしての完成度は非常に高いものがあるように思えたものの、細かくみていけば、タッチから反応するまでの微妙なレスポンスの悪さや、音量レベルの雑さ(ボタンからの操作だとステップが妙に大きい)など、気になるところが多々あり、ここまで値段が張るのならぐうの音もでないくらい完璧なものを出して欲しいと思ったものだ。

そして肝心の音質の方も、素晴らしいとは感じたものの、実はその後視聴したAK120の方が感動もので、それはもう思わず「マジか…」と口にしてしまうほどのものだった(10万越えという価格も「マジか…」だったのだが)。そしたこの時の「SONYよりもAK」という印象が、その後登場するそれぞれの後継機であるNW-ZX2とAK240を比べる際に思い出すことになる。

iPhone(RADSONE)で様子見する

当初の「中韓メーカーはナシ」という大前提が、ZX1のイマイチ感とAK120の感動でグラグラ揺らいだ結果、「【中韓メーカーはナシ】はナシ」といきなり180°方向転換する羽目になり、とはいえ本命候補は不在のまま、ここから迷路に嵌っていくことになる。

そんなこんなで2013年の年末、「DAPは今、買い替え時にあらず!」という結論に個人的に至り、それとは別にその頃気になっていたWestoneのUM Pro30を購入した(詳しくはこちら)。そして、このUM Pro30をiPhoneに直挿しして使う日々がかれこれAK240を買うまで続くことになるのだが、とはいえ、iPhoneの標準搭載のミュージックアプリは音がスッカスカなので、もうちょっといい感じの音楽アプリはないかと探したところ「RADSONE」に行き着き、ずっと使っていた。

はじめはやっぱり物足りなさを感じたが、しばらく使っていると慣れはじめ、またiPhoneだけで完結するお手軽さもあり、これはこれで充分いいのではないかと満足していた。なのでDAP選びに関しては2014年の夏頃くらいから熱が冷めてしまい、まあいいのがあれば…くらいの気持ちになっていた。

いろいろな機種を視聴する

ただ、その間もポイントポイントで気になる機種は視聴していた。本命候補の筆頭としてずいぶん待ったし期待もしていたFiio X5はホイールのチャチさにひどくガッカリした。触った瞬間「ズコーッ!」と心のなかの何かがホイールと一緒にスベった。

まだディスコン前だったiBasso HDP-R10は、音は確かに良かったのだが、やはり「デカっ!重っ!」という印象がそれ以上に強烈で、高音質を外へ連れ出すのは容易なことでないなと思い知らされた。

同じくiBassoのDX90jは音、操作性、重さなどのバランスがとても良く、とてもいい機種だと思ったのだが、それでも結局買うまでに至らなかったのは「これは買い!」と思い切れるほどの「魔法」がなかったからだと思う。

「賢者の買い物」と「魔法」

少し脱線するが、何か買い物をする時に、そこに過度な検討時間や労力をかけてしまうと、普通にいいと思ったものを買うという「普通の買い物」が出来なくなってくることはないだろうか。

少なくとも私は今回に限らずそういった傾向がある。目指すのはその時代のベストバイ、つまり「賢者の買い物」であり、しかもタチの悪いことに必ずそうでなくてはならないっ!というプレッシャーがいつの間にか勝手にムクムクと肥大化して、最終的に何も買えなくなるのが、だいたい私のいつものパターンなのだ。

要は私がものすーーーーーーごく優柔不断な人間だっていうだけの話なのだが、ただ、それでもひとつ言い訳を言わせてもらえるなら、モノのなかにはやはり「魔法」を放つものがあると思うし、その「魔法」に魅せられて人は大枚をはたくのだと私は思う。逆にそこに「魔法」がないのなら、それは「普通の買い物」で、たぶん選ぶべき選択肢ではないとも思うのだ。

では、その「魔法」とは何なのか?これはとても説明が難しいが、あえていうなら「畏怖」や「罪悪感」あたりが近い気がしている。そう、傷つくくらいじゃなきゃ刻まれないし、たぶん超えられないのだ。

…うん、我ながら重い。改めて言葉にしてみると痛々しいほど重たくて自分が一番ビックリするのだが、じゃあ、はたして本当にこんな重たい気持ちで普段買い物しているのかと自問自答してみると…、うん、たぶんしている。もちろん全部が全部、こんな重たい買い物じゃないが、でも、ここぞという買い物は常にジャンプをしていると思う。「えいっ!やあっ!」と何かを飛び越えるかのように。

そんな助走をつけて飛ばなきゃいけないような買い物は、はっきり言って私が目指す「賢者の買い物」とはずいぶん程遠いところにあるように思える。「そんなのはただの衝動買いだよ(笑)」と笑われるかもしれない。でも突き詰めていくと、それは確かに衝動買いであるけど、ただの衝動買いではないのだ。

腐るほどレビューを読み漁り、もちろん実店舗に何度も足を運び、あーでもないこーでもないと逡巡を情けないくらい繰り返す。でも、これが結果的にすべて助走になる。そして、逆に助走を十二分に取ったからこそ、覚悟を決めて飛び出せる、だからこそみせられるジャンプってものがあると思うのだ。

こういった「助走のある衝動買い」こそが実は「賢者の買い物」なんじゃないかと、今回清水の舞台から飛び降りるような思いで買ったAK240を手にして、何か思い至ったような気がしている。

どんなポリシーでもって普段買い物をしているかなんて今まで深く考えたことなかったけれど、ここには自分の哲学がありありと現れていると思うし、それってこのブログのテーマそのものじゃないかとハッとする思いだ。

「もしかしてAK240買えちゃう?」編

ほんの少しのつもりだったのに、かなりがっつりと自分なりの買い物論を書いてしまったので、そろそろ本線に戻りたい。

さて、DX90jの後、めぼしい候補が見つからない時期が続き、次第にDAP熱は冷めていくことになる。その頃にはもうAK第二世代のAK100IIとAK120IIが発売されてはいたのだが、価格面からいってとても手が出せないと割り切り、視聴は一応していたものの、本気で欲しくなるとまずいのでサラッと程度で済ませていた。AK240も一緒にその時に。AK240を初めて手にした時は、うわ〜これが例のアレか〜と少し感動した。

その時の第一印象としては、この三つ(AK100II、AK120II、AK240)、実はそこまで差がない気がした。強いていうなら、もし買うならAK100IIだなと思った。

じゃあ「そんなお前がどうしてAK240を買うまでに至ったんだよ?」って話。というわけで、AK100IIすら分不相応と思っていた私が、そこからいきなり二段飛びをかますことになった経緯について書き連ねてみたい。

カスタムIEMを検討する

まず、昨年末に少しまとまったお金ができた。まあ、つまるところこれがすべてといえなくもない。そして、それを普通だったら懸案のDAP購入費用にあてるところなのだが、その頃はiPhone+RADSONEの環境にある程度満足していたので、DAPよりもイヤホンを、しかもかねてからの憧れだったカスタムIEMに手を出そうという考えに切り替わった。

あれだけDAPを探していたのに何をいまさら!とつっこまれそうだが、耳に近いところから良くしていくというのがポータブルオーディオの世界のセオリーらしく、実際DAPを買い替えるよりも、イヤホンを買い替えた方がお金をかけた分のはね返りはわかりやすいと私も思う。だったら、カスタムIEMにしたらどうなってしまうんだろう…と興味がわいたのだ。

で、いろいろ調べたのだが、そのうちに一度買えば一生モノだと思っていたカスタムIEMが、実はそんなことないと知った。おいおいマジかよ…って感じなのだが、これが本当にマジらしい。経年変化で耳の形が変わるのだという。ラジオで亀田誠治が「なので僕はイヤモニを毎年作っている」とハッキリ言っていたから間違いない。まあ、亀田誠治はプロミュージシャンだし、仕事道具というのもあるからそれだけ惜しみなく買い替えられるのかもしれないが、たとえそうだとしても「十数万するものが一生モノでない」というのは私にとって軽く衝撃だった。

それに加え、カスタムIEMには「賭け」みたいな部分が多分にある。まず、いくら試聴機を聴き込んでみたところで、実際の完成品が全く同じ音というわけではないというのがひとつ。とはいえ、試聴機と比べて印象が悪くなるというケースは少なさそうなのだが、ちょっと不安に感じてしまうところがある。

そして何より怖いのが、たとえ間違いないところでインプレッションを取ったとしても、その完成品が必ずしも耳にフィットするとは限らないということだ。もちろん作り手側もプロなわけだから、全然耳に合わないなんてことはまずないだろう。でも、左耳の方だけ若干ゆるく感じるとか、そういったことは往々にしてあるみたいで、そのためのリフィットサービスなのだが、ただそれだって思った通りに一発でバッチリ決まるという保証がないのも事実らしく、さすがにレアケースだとは思うのだが、何度もリフィットをする羽目になった人もいるみたいだ。

しかも、そのリフィットだって一回一回が今日明日で直って返ってくるというわけでもなく、数週間かかるものなのだ。完成するまで場合によっては数か月間待ち、直すのに数週間。それでもまだ満足いくものでなかったらまた数週間…。どんだけリスキーなんだよ!とツッコみたくなる。そして初期不良のCOWON J3を掴むような自分が、はたしてその賭けに一発で勝てるのか?って話なのだ。カスタムIEMは確かに魅力的なのだが、なんか自分には合ってないような気がしてきた。

最強ユニバーサル機を検討する

でも、やっぱりイヤホン欲しいなあ〜と思い、次に目をつけたのが高級ユニバーサル機だった。しかもSENNHEISER IE800やWestone W60のさらに上、NOBLE AUDIO Kaiser 10 universal(以下K10U)だ。

たぶんK10Uは現在販売されているイヤホンのなかでも最強のひとつだろう。値段的にはJH AUDIO Laylaの方がさらに上だが、さすがにあれは無理…っていうかおかしいでしょ?いやいやいや、K10Uだって十分おかしいレベルじゃないの?という声も聞こえてきそうだが、そう、おわかりの通りK10Uを検討しはじめているこのあたりから完全に金銭感覚が麻痺している。

しかしながらこのK10U、ふたつの大きな懸念がある。まず視聴ができないこと。以前はeイヤホンに試聴機があったらしいが、残念ながら今は撤去されている。さすがに約20万円もするものを音も聴かずに買うのは躊躇われるというものだが、みんなけっこう試聴しないで買っているっぽいんだよなあ〜。勇者すぎる。

そして最大の懸念事項は、現在市場にほとんど出回っていないということだ。予想を遥かに上回る注文をNoble側が捌ききれていないようで、2月くらいの時点で予約しても年内に手元に届くかどうか…といった情報も2ちゃんねるで見かけた。ユニバーサル版を待つよりもカスタム版を買った方が早いという異常事態なのだ。

試聴もできず、すぐ手元に届くというユニバーサルならではの旨みもない…。「ええい!ならばK10カスタムをwizard designじゃあーっ!」と一瞬だけヤケクソになりかけたが、さすがにビビってやめた。ということで、泣く泣くK10Uも選択肢から外れることになり、またまたふりだしに戻ってきたわけだ。

あれ?もしかしてAK240買えちゃう?

そんなこんなしているうちに、ある日ふと完全に忘れていたDAP方面からひとつの案が浮かんできた。「あれ?K10U買う気なら、もうちょい足せばAK240買えるんじゃね?」と。まったく、完全に金銭感覚がおかしくなっているからこそ聞こえてくる悪魔のささやきだ。まさか自分がAK240を買うなんてこと、想像もしていなかったので完全に盲点だった。

「そうだよ、そう!そもそもお前はDAPを探していたんだよ!なのに、なんでカスタムなんて考えてるんだよ!目を覚ませ!」というわけで、ここでようやく初心にかえるわけなのだが、この長い長い周り道のゴールとしても、AK240は何かふさわしいもののように思えたし、周り道をしたからこそ辿り着いた選択肢のような気がして。

AK240 vs AK第二世代

AK240が検討対象になるということは、それすなわち市場に出回っているほとんどのDAPが対象候補となるのだが、まずは手始めにAK240とAK第二世代(AK100IIとAK120II)の比較からしてみた。

以前ザックリと試聴した限りでは、この三つに値段ほど音質の差はないという感想を抱いたが、ではいざ購入対象として耳を凝らして試聴してみたところ…うーん、やはりその思いは正直いってそこまで変わらない。いずれもベースとなるのはAKシリーズらしい上品な音で、その味付けの仕方がそれぞれ若干異なる程度ではないだろうか。

とはいえ、やはりAK100IIとAK240を聴き比べると、そこには確かな差を感じることができる。逆に、AK120IIとAK240の音質差はほとんどないと思う。ただ、仮にAK240を買えるだけの予算があるのなら、そこをあえてAK120IIの方を選ぶ理由もないような気がする。

AK120IIとAK240の大きな違いは、ストレージの容量とDSDをネイティヴで再生できるかどうかのふたつしかない。ただ、ストレージの容量なんて後からなんとでもなる話なので、焦点としてはDSDネイティヴの一点に絞られるだろう。「DSD音源なんてまだまだラインナップは乏しいし、値段も高いし、ネイティヴ再生なんて全然必要ない。だからAK120IIで充分」というのが、まあ一般的な考え方なのもしれないが、ここは「コストパフォーマンスなんてクソくらえ!」な趣味の世界、「フラグシップ」という言葉にめっぽう弱い人たちの集う場所なのだ。

なので、両機の音質差を聴き分けられてAK120IIの方が断然好みだとか、AK240のデザインがどうしても受け付けられないとか、そういった何らかの特別な理由があってAK120IIを選ぶのなら話は別だが、そうでないというのなら、もうちょっと予算を捻出してAK240を選ぶ方が後悔がないと思う。もしAK240を買えるだけの予算があったのにも関わらずAK120IIを選んだとしても、後々「なぜあの時、もう少し出して240にいかなかったんだ?」と思わない保証はない。ただ、AK240を買ってしまえば後々「やっぱり120IIでよかったな」と思うことはきっとない。AK120IIとAK240では所有欲の満たされ方が違うと思うし、この「『これより上』を考えなくてもいい」という安息こそフラグシップ機を選ぶことの価値であり、そしてそれはこの手の買い物においてとっても重要なものでもある。

この通り、めっちゃ精神論なのだが、以上の理由でAK第二世代は候補から外れた。ちなみに、賛否両論あるAK240の独特なデザイン、私も最初は「??」だったのだが、いざ手に取ってみると思いのほか手にフィットすることに驚いた。人間工学とフラグシップ機にふさわしい独創性が高いところで溶け合った非常によく練られたデザインだと思う。ちなみにライカなどを手かげたデザイナーによるものだということ。それに対して、AK第二世代のデザインは一見シンプルで完成度が高いように見えるが、ありきたり過ぎてつまらなく思う部分もある。特にAK120IIは頭でっかちすぎて、液晶の位置が手に収まった際に下すぎるような気がした。その点、AK240は液晶が上なので上部のスリープボタンとの位置関係のバランスも良く操作しやすい。これもAK240を選んだ理由のひとつでもある。

AK240 vs PAW GOLD vs NW-ZX2

AKシリーズでの比較を終えて、やはりAK240だという確信を強めはしたのだが、それでもまだ買えないのは、AK240の更に上をいく超強気の価格設定でポータブルオーディオ界隈を騒然とさせた新星「Lotoo PAW GOLD」と、国産の雄(とはいえ実際はマレーシア製)である我らがウォークマン「SONY NW-ZX2」との比較がまだだからだ。ZX2は他の二つに比べると価格帯が全然違うのだが、それなのにこの三つはセットで「最強DAP決定戦」的に比較されることが多い。

というわけでここがいよいよ天王山。自分の目と耳と手でもって、どれがベストバイが見極めてみようじゃないか!ここまでも充分長々と書いてはきたが、実はここからが一番書きたかったところであり、またニーズもあるところだと思うので、あくまで個人的な意見とはなるが、余すところなく書いてみたい。

DAP選びの三つのポイント

まず最初に、私なりにDAP選びに関して三つのポイントがそもそもあった。

  • 操作性=UIが使いやすいこと
  • 音質=直挿しでも満足できること
  • 重量=あまり重たすぎないこと

この三つを指標として、実際に手に取って試聴してみた結果、結論から言えばAK240だけがそのすべてを満たしているというのが私の見解だ。では、各ポイントからどうしてAK240なのかを解説していこう。

操作性について

まず最初は操作性について。AK240とZX2は液晶のタッチパネルによる操作がメインで、サブとして横に物理ボタンがついている。それに対してPAW GOLDはすべて物理ボタンでの操作となる。物理ボタンは慣れてしまえばポケットの中でも操作できたりしてとても便利だ。実際にPAW GOLDを触ってみたが、物理ボタンによる操作感は反応もサクサクでとても良いと思った。

ただ、私はわりとちょこちょこ選曲する派なので、いちいちボタンを押しての上下移動による選曲はとても面倒に感じた。タッチパネルでの操作に慣れ親しんでいる人は、このように直感的に操作できないことへの煩わしさを感じてしまうことだろう。また、PAW GOLDはリスト画面でアートワークがサムネイル表示されないので、これもまた直感的に選曲できない要因なのかなと思う。やはりすべての操作が物理ボタンオンリーというのは今の時代にそぐわないし、なかなか厳しいものを感じる。

ついでに言うと、AK240やZX2に比べてPAW GOLDは操作画面が一回り小さいし、解像度も明らかに劣る。特にAK240は高精細な有機ELなので、その差たるや、例えるならファミコンとプレイステーション3くらい違う。とはいえ、PAW GOLDのあのビットマップな感じは、それはそれでプロユースっぽい業務用チックな雰囲気を醸し出していると思うので、「何いってんの?そこがいいんじゃないか!」と言う方も案外多いのではないだろうか。かくいう自分も実はそのひとりだったりした。

なのになぜ最終的にAK240を選んだかというと、本来のコントロールパネルとしての役割でいえば、その情報を表示する画面は大きければ大きいほど見やすいし使いやすいというのが一般論であり、またDAP選びにおいてもそれが結論でもあると思ったからだ。わざわざ小さくて見づらい方を選ぶ必要はない。「いやいや、それでもやっぱりPAW GOLDが…」という人はPAW GOLDを選べばいいし、私のようにそうは思えない人は普通にAK240を選べばいい。

PAW GOLDの見た目部分でもうひとつ。多くの人が「これだから中華センスは…」と苦々しく思っているであろう例の菊紋(実際は太陽神アポロンをモチーフにしているらしい)のような金色のボタン。個人的に実物はそこまでダサく感じなかった。いや、むしろこの「やっちゃった感」が絶妙なアクセントになっていて、なければないで物足りなく感じるのではないだろうか。気になる方は是非とも実物を見てから判断してもらいたい。

続いて音量調節に関して。音量調節はAK240とPAW GOLDはダイヤル式のボリュームでの操作となる。PAW GOLDのボリュームはほどよい重みがあり、高級機らしいカチカチ感を感じることができるのだが、それに比べてAK240のボリュームのゆるいことゆるいこと…。回し心地が非常にお粗末極まりない。今ではもう慣れてしまったので特別不満に思うこともなくなったが、どうしてこんなに操作感を軽くしてしまったのか本当に謎で、数少ないAK240のいただけないところのひとつだ。

一方、ZX2は液晶画面でもサイドボタンでも音量調節が可能となっている。ZX2のサイドボタンはZX1に比べると全体的に大きくなり、特に音量のプラス・マイナスボタンに関しては「バカにしてるのか?」ってくらいデカいので、一見とても使いやすそうにみえる。しかし持ってみるとわかると思うが、ボタン周りが凹んでいるので妙に押しづらく、また押した時の感触も堅い。あと、ZX2自体がもともと大きめのDAPなので、手の小さい人がこのサイドボタンを使いこなすのはちょっと厳しそうだ。

そんな感じでこのサイドボタン、世間的にはおおむね好評らしいのだが、ホントかよ?と疑いたくなるのが私の本音。「デカくすれば使いやすいだろ?」って、そんな単純な話ではないですよ、ソニーさん。

ちなみに、ZX1の時に残念に思った「サイドボタンによる音量調節のステップ幅がデカい問題」は多少改善されていて、ZX1が30段階での音量調節だったのに対して、ZX2は倍の60段階となっている。それでもAKシリーズは152段階なので、60段階でもまだまだって話なのだが。

しかし逆に「そこまで細かく音量調節したいか?本当に152段階も必要なのか?」という声もあるかもしれない。このあたりはボリュームコントロールがボタンでカチカチ方式なのか、それともダイヤルでグルグル方式なのかと、その方式によって最適と思われるが値が異なるので、一概にどちらがいいのかの白黒つけるのが難しいところだとは思うのだが、それでも敢えて言わせてもらえるなら、音量は細かく選べるに越したことはないと私は思う。

最後にOSまわりについて。AK240はAndroidをベースとしたカスタマイズOSで、音楽再生に特化されている。逆にいえば、音楽以外のアプリが一切ない。これはAK240に限らずAK第二世代も同様である。特別良いとも思わないが、悪いところも見当たらない無難なUIで、Android感はあまり感じない。

それに対してZX2はAK240と同じくAndroidなのだが、こちらは別にカスタマイズされたわけでない普通のAndroid(バージョン4.2.2)なので、メールやブラウザなど、音楽再生と関係のないアプリがバッチリ入っていて、もちろんその分のストレージをちゃんと喰っている。とはいえ目くじらをたてるほどでもない微々たるものだろうが。ちなみにZX1もAndroid(バージョン4.1)で、そこから比べてもあまりUI周りの改善点はないように思う。

最強のウォークマンを作ると言っておきながら、どうしてOSにはこだわらないのか本当に疑問で、普及価格帯でのハイレゾ対応ウォークマンとして人気を博している同じくソニーのA10シリーズは独自OSなんだから、フラグシップたるZXシリーズも独自OSを載っけるくらいの気概が欲しいところだ。開発陣は「バージョンの古いAndroidを“敢えて”選んでいる」とか偉そうに言ってる場合ではないと思う。

そしてPAW GOLD。こちらは完全に独自のOSを使っている。特筆すべきはこのOSの軽さで、電源のオンオフが非常に早い。また操作の反応速度も良く、AK240もZX2もタッチから反応までほんの僅かだがタイムラグあるのに対して、PAW GOLDはない。さきほど物理ボタンのみでの操作をネックポイントとして挙げたのだが、このボタン反応の良さのおかげでありと言えばありレベルには仕上がっている。ちなみにPAW GOLDもAKシリーズ同様、音楽再生以外の機能は一切ない。DAPなので本来そんなのは当たり前の話なのだが念のため。

以上をまとめると、AK240が他のふたつに比べると総合的に一番操作性が優秀だと思う。UIもそつなくまとまっているし、わざわざカスタマイズしたAndroidを載っけているあたりにもireverなりのこだわりを伺える。逆に、繰り返しになるがソニーはもう少しできたんじゃないのかと訝しく思う。ZX2がZX1とほぼ同じUIというのは本当に残念でならない。元々ZX2自体が売れまくったZX1の二匹目のどじょうを狙った早すぎるマイナーチェンジモデルといった感じなので、次に控えているであろうZX3にはそのあたりの進化を期待したいところだ。

音質について

では次に、一番気になるところでもある音質について。でも実はここは好みの問題もあるので、あれこれ語るのは難しい。なので、これから書いていく内容はあくまでも私の主観で、せいぜい参考程度くらいにしておいてもらいたい。

とにかく、この価格帯のDAPを買うのであれば、実物を視聴しに何度も足を運ぶことを勧める。「百聞は一見にしかず」ということわざがあるが、DAPに限らずオーディオ全般はこの逆だと本当に思う。どれだけレビューを漁って読んでもしょせん他人の耳での話なので、そこはしっかりと自分の耳とその感性で選んでいただきたい。

まず、いずれも会社の看板を背負ったフラグシップ機なので音質はどれも申し分ない…といいたいところだが、やはりZX2がほかのふたつに比べると一段劣ると思う。

私が聴いたイメージを率直に言うと、ZX2とPAW GOLDは音の傾向が似ていて、AK240に比べると「狭くて力強い」。一方AK240は他のふたつに比べると「広くておとなしい」。このように音の傾向としては両極端で、よって一概にどちらが高音質かというのは答えようのない質問だと思う。

逆に音の傾向が近いZX2とPAW GOLDでは優劣がつけられ、PAW GOLDを聴いてしまうとZX2に物足りなさを感じてしまうことだろう。まあこれは価格が倍は違うから、そのあたりを考慮すれば致し方ないと思うので深く追求しない。

PAW GOLDの真に迫るような音は凄まじい。だが、AK240に比べるとコントラストが強いのか、鳴り方がややキツく感じるところもあった。また、プロユースを謳っているのに、音が思いの外あまりモニターモニターしていなく、リスニング感のあるものだった。

対して、AK240の特徴はその音場の広さだろう。特に縦方向への広がり方は他では感じることのできないものであり、それがまた変なサラウンド効果みたいな安っぽいものではなく、立体的で上品な空間なのだ。

あと、解像度でいったらPAW GOLDとAK240はどちらも申し分ないのだが、特にAK240は音の余韻というか、消え際がすごい。説明が難しいが、AK240の余韻は習字で例えるなら「はらい」のかすれ具合が聴こえるような感じなのだ。この辺りは宇多田ヒカルの『First Love』のハイハットでPAW GOLDとかなり聴き比べたが、AK240の他が印象的に響くように感じられた。

ただ、先に述べた通り、この両機の音の傾向はかなり極端なところにあるので、どちらが単純に上かと比較できるものでもなく、また聴く音源の傾向にも依る部分もあるとも思うので、最終的には好みの問題なのかなという結論だ。よって、それぞれの特性を比較して吟味した上で、より自分の望む方向に近いものを選べばいいのではないだろうか。

結局私はAK240を買ったが、その要因として音質以外の部分が大きく、単純にPAW GOLDよりAK240の方が音質が良いとは思っていない。音と傾向としてはどちらも好みのだし、もし油田を掘り当てたなら両方とも欲しいと思う。

重量について

最後に重量について。私の場合、家ではDAPを使わないので、使用場所としては完全にアウトドアがメインとなる。なので持ち運びを考えると軽いに越したことはないのだが、逆に軽ければいいっていうわけでもない。

それはなぜか。これはDAP選びの最後の方にだんだんわかってきたことなのだが、上位機になればなるほど、つまり音質が良いとされるものほど得てして重たいのだ。DAPの重さとはパワーであり、音質はそのパワーに依るところが大きいと思う。(※けっこう言ってることが無茶苦茶だが、ザックリとそう言える部分はあると思うので続ける。)

では、なぜパワーが音質に直結するかといえば、最終的な出力先であるイヤホンやヘッドホンの持つ力を最大限に引き出せるかどうかは、DAPのパワー次第だからだ。かなりいいお値段の高級ヘッドホンをiPhoneに繋いで鳴らしてみた時に「…ん?」と感じるアレはつまりこのことで、iPhoneがそのヘッドホンを鳴らし切るほどのパワーを持っていないからだといえる。

では、AK240とPAW GOLD、そしてZX2のそれぞれの重量はというと、下記の通りとなる。

  • AK240=185g
  • PAW GOLD=280g
  • ZX2=235g

一見してわかる通り、AK240だけが100g台で最も軽い。缶コーヒーが185gなのでそれと同じと書くとわりとズッシリに感じるが、iPhone6 Plusが172gでわりかし近く、モバイル端末としての重さとしてはギリギリでアリな分類といえる。

そう考えると、AK240より約100gも重たいPAW GOLDがいかに重たいかわかると思う。PAW GOLDはサイズがAK240よりもパッと見では小さくコンパクトにみえるのだが、厚さがなかなかのものなので、手に持つと余計ズッシリとくる。「あれ?こんなに重いの?」というのが、おそらく多くの人が手に取った時に感じる率直な感想だろう。ちょっとポケットに入れて外出…というには、ポケットに穴が空きそうなレベルの重たさだ。

そしてZX2。これはもう見た目通りに重い。身も蓋もなく重いと思う。しかもこの重たさの要因がその異常に持つバッテリーの分のような気がするから何だか癪なのだ。ZX2は他のふたつに比べると約3倍は連続再生時間が長い。私もわりかし毎日充電は面倒だと思うタイプなので、それはまあ魅力的に思えなくもないのだが、「というわけで、デカくて重くなりました!」というのは、あまりにもナンセンスすぎやしないだろうか?

操作性のところでも言及したが、ZX2はポータブル用途としては少し大きすぎるような気がしている。Calyx MやAR-M2などもそうだが、ちょっと外で使うのは躊躇う大きさというか、「それ本当にポケットに入るの?」といった感じで、DAPはポケットに入ってナンボだと思う私としては、ちょっと選択肢に入ってこない。

重さの話に戻るが、AK240の185gというのは、この手の高級DAPとしては異例の軽さだったりする。逆にいえば、どれもこれも重たすぎるのだ。個人的には200gがひとつの壁かなと思っていて、200g以上だと外に持ち出す使い方としては厳しいものがある気がする。

その点AKシリーズはAK100からずっとポータブルという前提を決して崩さずに商品を展開し続けて、結果DAP界隈の一角を担うまでの存在になった。ZX1が売れたのも、あのサイズにまとめてきたからだというのが実のところ大きいだろう。このように多くの人は「ちょうどいい大きさ」を求めている。なのに「音いいです。でも大きいです。重いです。」という商品が一向になくならないのは本当に謎だ。

まあ、それでも中華DAPなら許せるのだ。あれはそういう特別枠だから。でも、そんな底の浅い場当たり的な商品を「こだわり」という聞こえのいい言葉でオブラートのように包んで平然とブッ込んでくるような真似をするソニーには率直に失望を感じるし、クラフトマンシップの欠片さえないように思う。元々大好きなソニーなのに、いや、大好きだからこそ今のソニーのやっていることの信念のなさみたいなものが本当に残念でならない。

最後は完全にソニーへの愚痴になってしまったが、まとめると「軽いDAPはパワー不足」「重たいDAPは持ち運びに不便」ということで、ならばあまり重たすぎないAK240が一番ポータブル用途としては向いているというのが私の見解となる。

結論は「総合力でAK240」

3つのポイントとなる「操作性」「音質」「重量」のすべてにおいて、AK240だけが自分のなかの基準をクリアしてくれた。逆に他のふたつは、まだまだツッコミどころがあるように思える。これほどの価格設定にもかかわらず、音質面というのならまだしも、それ以外の作り込みの部分でまだ不満に思われてもしかなたい要素が残っていること自体がそもそも謎だ。

AK240の魅力はその総合力、そつのなさと言えるだろう。ひとつひとつの要素がどれもが高いレベルでまとまっていて、特別不満を感じるところがない。唯一にして最大のネックはやはり価格。でも、逆にいえば価格だけなのだ。オタクの足元をみるような、あえて言わせてもらうがこの非常識な価格設定さえ許せるならば、間違いなく最高の満足感を与えてくれるだろう。

たぶん「こんな値段なんだから、そりゃ良いモノに決まっているだろうが!」と思われるかもしれないが、確かにそれはそうなのかもしれないが、でも、このくらいの値段を出さなくては何の不満のないモノが手に入らないのが今のDAP市場と言えると思う。残念なことに「音はいいけど、使い勝手が…」とか、「軽くて操作しやすいが、音はそこそこ…」みたいな、そんな製品ばかりなのだ。何を諦めるか、何を許すかという「落としどころ」としての選び方しかなく、何も諦めずにとことん理想を追求するとなると…選択肢としては非常に限られてくる。

ここで少し初心に立ち返ってみるが、そもそもスマートフォンで音楽を聴くのが主力のこの時代にあえてDAPを買うような奇特な人種である我々は、別にお金をかけてもいいから外でもちゃんとした音で音楽を聴きたいという願望があると思うのだ。であれば「何で妥協する?張ればいいだろ?上限まで。」という、ちょっとイケない囁き声があなたも聞こえないだろうか。もし聞こえているのなら、もう思い込んでジャンプ、翔ぶしかない。AK240はその着地点とするにはふさわしい製品だと思うし、総合力で最強のDAPだと確信している。

AK240を購入してみて

eイヤホンに時間をあけて都合三度試聴しに行った(ビビりすぎ)。そしてeイヤホンではない別の店で買った。もちろん新品。eイヤホンは量販店ならケース内にあるだろう高額商品も自由に試聴させてくれてとてもありがたい店だとは思うけど、でもやっぱり「買う店」とは思えない。

eイヤホンにはPAW GOLDもあるし、AK240の上位版であるAK240SSもある。もちろんどちらも気軽に視聴可能なので、このあたりと比較検討しての購入を考えている方は、たとえ遠方であっても最低一度は足を運ぶことをおすすめする。

ちなみにAK240SSとAK240の音の差は若干だが確かにあると思うし、私はAK240SSの方が好み。より澄んでいる気がする。ただしAK240SSは重量が275gもあり、PAW GOLDの280gと大差なく、ポータブルするのがしんどい重さなのでパス。これがせいぜい200g弱くらいで抑えてくれて、AK240との価格差がもう少し常識の範囲内であればAK240SSを選んだと思う。

AK240を購入してみて、まず率直なところでは、長いこと日常化していた価格.comと2ちゃんとTwitterと、そんなネットパトロールから解放されてホッとした。当分DAPのことを考えなくていいわ〜なんて思っていたら、先日AK380が発表されてちょっとだけガッカリ。いや、そろそろなんか仕掛けてくるだろうなとは思っていたにはいたのだが。

でもあれはなんて言うか「スーパーガンダム化」まで見据えてこそ価値があるような感じなので、もはや別ジャンルの空気感がある。とことんまでiriver様についていきますという信者仕様すぎるかなと。ただ、大きさは確かに大きくなったが、重量は218gということでPAW GOLDやAK240SSよりも控えめなところは好感が持てる。発売されたらちょっと聴いてみたい。

長い長いレビューもさすがにそろそろおしまいとしたいが、最後にあと少しだけ。よくポータブルオーディオ環境を整えていく順番としてDAPが先かイヤホンが先かという話があり、一般的にはイヤホンからこだわっていった方がコストパフォーマンスがわかりやすいと言われている。これは私もそう思っていて、極端な話、カスタムIEMとスマートフォンでも、デフォルトアプリではなく数百円くらい払ってミュージックアプリを使うようにすれば、ある程度の満足感は得られるような気がする。

ただし、果たしてそれで本当に満足なのか?っていう話でもあるのだ。カスタムIEMをスマートフォンに挿して満足できるような人が、そもそもカスタムIEMを買うだろうか。いやいや、そんなはずがない。せっかくのカスタムIEMなんだから、それを思う存分鳴らし切れるDAPが欲しくなるに決まっているわけで、近い将来にそれに見合ったDAPを買うことになるだろう。DAPとイヤホン、どちらか一方にこだわろうとしても、最終的にはどちらにもこだわることになってしまうと思う。

であればだ、DAPが先かイヤホンが先か、その答えとしては「どっちが先でもいい」が適切なのかもしれない。私は今回DAPが先になってしまったが、ここが終着点だなんて全然思っていなくて、むしろようやく下準備が終わり、ここからスタートくらいに思っている。このAK240でいろいろ視聴して、次のイヤホンを探すのがこれからとっても楽しみだ。とはいえ、今は手持ちの予算を大放出してしまった状態なのでおいそれと次は何かなんて考えられないが、また時期が来たら、K10Uのような高級ユニバーサル機やカスタムIEMを手にする夢をみたい。

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don’t stop believin’ – 「信じることをやめるな」と春 https://koeru.jp/2015/03/dont-stop-believin/ Tue, 31 Mar 2015 14:57:36 +0000 http://koeru.jp/?p=240 昨日、なんとなくhuluで『glee』を観はじめた。シーズン1の第1話。評判のわりにいまいちパッとしないなあ〜なんて思ってたら、最後の歌でバッチリ泣かされた。もうこういう風にみんなで歌ったり演奏したりするやつに、私の涙腺…

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昨日、なんとなくhuluで『glee』を観はじめた。シーズン1の第1話。評判のわりにいまいちパッとしないなあ〜なんて思ってたら、最後の歌でバッチリ泣かされた。もうこういう風にみんなで歌ったり演奏したりするやつに、私の涙腺は滅法弱いのだ。少し前にさそうあきらの『マエストロ』を読んだ時もやっぱり泣いた。あれはあれで一記事書きたくなるくらいの感動だったので、未読の方には是非手にとってもらいたい。すごくいいから。

話を戻すと、そうそう、それはラジオか何かで何度も耳にしたことのある曲だった。でも耳にしたことがあるというだけで、ちゃんと「聴く」のはその時が初めてだった。なるほど、こういうことを歌っていたのかとその時に初めて知った。曲の名前を知りたくなって調べようとしたが、もう時間も遅かったし、またヘンに調べて本筋のネタバレを踏むのも嫌だったのでそのまま寝た。

そして今朝、ラジオからその曲が流れてきた時、ラジオと心が通じ合ったというか、何かつながるものを感じた。昨日の今日だったのでブワッと映像まで浮かんできて、昨日の今日なのにまたちょっと泣けてきそうだった。

曲の名前は「don’t stop believin’」。信じることをやめるな。めちゃくちゃド直球だが、こうも面と向かって言われるとハッとする思いがする、そんな言葉だ。そしてそれが音楽にのると、こうも響くのかと。胸を打つのかと。音楽ってすごい。

そのラジオは今日が最終回だった。3月31日は改編のタイミングなので今日で終わる番組も多い。こうやって何かが終わり、また何が始まるこの時季は感傷的な気分になりがちなのだが、今年は「don’t stop believin’」のおかげでいつもより何か前向きな気持ちでもって過ごせそうな気がしている。

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救われない男・金木研が失くした死に場所 – 石田スイ『東京喰種』感想 https://koeru.jp/2015/03/tokyo-ghoul-season1/ Fri, 20 Mar 2015 13:19:59 +0000 http://koeru.jp/?p=238 年明けぐらいに一気読みしたので、それからずいぶんと時間があいてしまった。それでもいつかちゃんと感想を書きたいと思うくらいハマったので、そろそろちょっとまとめてみる。とはいえ、まだまだ連載中の作品なので、とりあえず2ndシ…

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年明けぐらいに一気読みしたので、それからずいぶんと時間があいてしまった。それでもいつかちゃんと感想を書きたいと思うくらいハマったので、そろそろちょっとまとめてみる。とはいえ、まだまだ連載中の作品なので、とりあえず2ndシーズン(?)の入り口である『東京喰種:re』の1巻までの感想となってしまうが、ぼちぼち書いてみたい。

もし『東京喰種』の魅力は何か?と訊かれたら、それはもう作画の上手さ(本当にどんどん上手くなる!)や、スピード感のあるバトル描写、赫子などの細かい設定の作り込み、クセのあるキャラクターたち、ご都合主義にならないリアルな展開などなど、人によって答えはいろいろあると思うが、私はあえてそれを主人公・金木研、そう我らがカネキ君のその「救われなさ」に尽きると答えたいと思う。

『東京喰種:re』の1巻で西尾先輩が言う通り、カネキの救われなさにはホント胸が苦しくなる。とはいえ、14巻までを一区切りとして考えるなら、実はこのマンガの登場人物たちはほとんど救われていないし、かく言う西尾先輩だってそのひとりだろう。しかし、それでもカネキの救われなさ具合は特別で、もうこの『東京喰種』ってマンガはつまるところ“カネキいじめ”の話なんじゃないの?と思ってしまうくらいだ。

7巻でヤモリに精神的に殺されて、白カネキとして覚醒。14巻で有馬に「金木研」としての存在を殺されて、『東京喰種:re』で「佐々木琲世」として再出発する(こう思うと7巻毎に殺されているカネキ君…)。いずれの場面も、カネキにとって死に場所に違いなかったのだろうが、そのどちらでもカネキは最終的に死にきれなかった。ヤモリの場合は自らの意志でもって死を選ばなかった(喰種としての新しい自分を生きる覚悟を決めたともいえる)のだが、有馬の場合は死ぬことも許されず、その権利さえ奪われてしまったともいえる。

「殺されても死なない」というのは、そもそも言葉として矛盾しているが、カネキはその矛盾のど真ん中にいる。状態としては死んでいるわけではない。しかしそれを積極的に「生きている」と言い切るにもどうにも歯切れが悪い。そんなどちらにも辿り着くことのできない運命を背負いながら、それでも生きようとする直向きさ。これこそがカネキの「救われなさ」だと思うのだが、それはまた同時にカネキという悲劇のヒーローの魅力でもあり、このマンガの核だとも思っている。

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遠くで戦う友へ – amazarashi『夕日信仰ヒガシズム』感想 https://koeru.jp/2015/02/amazarashi-higashizumu/ Mon, 02 Feb 2015 14:20:07 +0000 http://koeru.jp/?p=232 きっと誰しもが少なからず経験あることだとは思うのだが、青春時代に「音楽に救われる」とか「音楽があるから生きていける」とか、そんなことを思ったり感じたりしてしまうことが私にもあったりした。でも、それが自分にとっての音楽との…

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きっと誰しもが少なからず経験あることだとは思うのだが、青春時代に「音楽に救われる」とか「音楽があるから生きていける」とか、そんなことを思ったり感じたりしてしまうことが私にもあったりした。でも、それが自分にとっての音楽との関わり方だと思っていたし、その関係はいつまでもずっと続くものだと信じていた。

しかしある時から、たぶん好きなバンドのライブに足繁く通うようになったあたりから、急にそんな風に思ったり感じたりすることが嫌になってきた。イヤホンから流れてくる自分だけのものと思っていた音楽は、実はみんなのものだった。周りの人達と一緒になって同じタイミングで同じように拳を突き上げ、同じように感動に浸るという音楽の共有体験は、それはそれで新鮮だったし素直に楽しかったのだが、同時にそれはこれまでの自分の音楽だと思っていた「わかってたまるか」精神と真逆のところにあるものでもあって、当初は複雑な思いをひとり感じたりもした。

次第に音楽と自分を切り離していくようになり、そのうち「音楽は音楽、自分は自分」くらいの距離感で丁度いいと思うようになった。ジーンとくるような歌詞や、ゾクゾクとするような音にいくら自分の心を重ねたりしてみても、それで沸き上がってくる感慨を決して偽物とはいわないが、どうしても借り物のような気がして。だからすごくカッコ良いとか面白いとか、そういうことだけ感じられればもう充分になった。イヤホンと鼓膜の間にしか音楽がなかったあの頃のように、「わたしの歌」はもう必要なくなっていた。

しかし「それでも」だ。そんな私でも、amazarashiの歌はやっぱり突き刺さる。秋田さんの声はこの凝り固まった胸の奥まで響く。なんて言うか、届く。かつて中村一義の『キャノンボール』やSyrup16gの『Reborn』に何かを乗り越えていくための力をもらったように、amazarashiの『もう一度』もまた人を明日に突き動かす力に溢れている。

amazarashiに「出会えた」と思うのは、心のどこかでいつも仲間を探している証拠なんだと思う。だからもしこの記事に偶然行き着いて、何か少しでも共感できるところがあったとするなら、あなたも私が探している仲間に違いない。私たちはこうやってamazarashiを媒介にして、遠くで戦う友がいると信じることができる。そして自分もまた強くありたいと願う。だから雨曝しの友よ、挫けるな。立ち上がれ。もう一度。

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水曜日のカンパネラを知らないなんて絶対正気じゃない! https://koeru.jp/2014/12/wed-camp/ Fri, 12 Dec 2014 17:25:42 +0000 http://koeru.jp/?p=227 はじめはラジオ。流れてきた「桃太郎」に一体なんだこれは?となりまして。PCエンジンbyハドソン?魂の十六連射?すぐさま「水曜日のカンパネラ」で検索してみたら、どうにもこうにもサブカル臭がプンプンする結果内容にヒット&ヒッ…

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はじめはラジオ。流れてきた「桃太郎」に一体なんだこれは?となりまして。PCエンジンbyハドソン?魂の十六連射?すぐさま「水曜日のカンパネラ」で検索してみたら、どうにもこうにもサブカル臭がプンプンする結果内容にヒット&ヒットだったので、ああこれはパスパスこれはパスだと。

で、先日YouTubeでいろいろみていた時にふとその「桃太郎」を思い出しまして。そうだそうだとちゃんと聴いてみたのだけども、その時ようやく気づいたのね。トラックけっこうかっこいいじゃないか!と。ラジオだといまいちわからないね。あの妙なラップばっかり気になっちゃって。

おもしろいじゃない!と続けざまに今度は「千利休」という曲を聴いてみたのだけど、これで完璧にハマってしまって。なんだこれ!と。そんな感じでYouTubeで「千利休」と「桃太郎」を繰り返し聴いていたら、そのうちだんだん物足りなくなってきてしまい、ええい!もう買うちゃうか!と。CD。で、買っちゃったよ『私を鬼ヶ島に連れてって』。

買ってから気づいたのだけど、詞も曲を作っている人が書いているのだね。ケンモチヒデフミさん。てっきり歌っている人(コムアイさん)が書いているのかと勝手に思ってた。若いのに天外魔境IIとかよく知ってるなあ〜って思ってたんだよ。

お目当ての「千利休」と「桃太郎」はもちろん、「インカ」とかもなかなかよい。麻婆春雨がなんでこんなにキャッチーに聴こえるなんて!あと「ジャンヌダルク」とか、着眼点がすごいなあと思う。ジャンヌダルクをバスガイドにしちゃうとか、なにその発想の豊かさ。ゆるめの「ドラキュラ」で締めるのもいい。でまた「千利休」に戻る。で、気づくとこのループを何度も繰り返している。まさにハマっている。

とにかく、これだけ楽しい曲が8つも入って1,500円はとってもお得。気になった人はとりあえず買ってみて聴いて欲しい。これをサブカルだからといってスルーするのはちょっともったいない。食わず嫌いよくない(自戒もこめて)。

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それぞれの成長と掛け算 – 『ウォーキング・デッド』シーズン4感想 https://koeru.jp/2014/12/walking-dead-season4/ Fri, 12 Dec 2014 10:15:57 +0000 http://koeru.jp/?p=226 『ブレイキング・バッド』を全部観終わってからすぐに観たのだけど、なんだかんだで安定のおもしろさだなあと感心した。『ブレイキング・バッド』は全体的にわりとまったりな感じだったけど、『ウォーキング・デッド』は常に生きるか死ぬ…

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『ブレイキング・バッド』を全部観終わってからすぐに観たのだけど、なんだかんだで安定のおもしろさだなあと感心した。『ブレイキング・バッド』は全体的にわりとまったりな感じだったけど、『ウォーキング・デッド』は常に生きるか死ぬかの戦いなので、やっぱり緊張感があっていい。

シーズン3はガバナーという強力な個性が話を動かすワンマンなシーズンだったけど、シーズン4はいつものメンバーの人間性を少しずつ掘り下げた、いわば熟成のシーズンだったと思う。個人的にはキャロルの掘り下げ方がシーズンMVPをあげたいくらいよかった。シーズン3の感想にもちらっと書いたけど、もう化け切った感のあったキャロルがシーズン4で更に深みを増してきた。

逆に、あれだけ前シーズンで魅せてくれたガバナーの描かれ方があんまりパッとしなくて残念だった。ちょっと煮詰まった感もあったリックたちの刑務所生活を次のステージへと導くための再登板だったのだとしても、もう少しなかったのかな〜って。「ブライアン」が「ガバナー」に戻る展開も、あまりにも唐突すぎて…。じゃあ、なんで「ブライアン」やってたんだよと。

成長と掛け算

こんな感じで、中盤までなんかパラパラとした印象のシーズン4だったけど、ガバナーとの最期の決戦以降の刑務所が崩壊してからの展開が素晴らしいと思った。最初はここでまたバラすのか〜と思ったが、はじめに書いた通り、それはキャラクターの人間性をもう一段掘り下げるために必要なプロセスだったということが最後までみるとよくわかる。そして、バラバラにしたからこその「終着駅(ターミナス)」であり、逆に次の舞台が「終着駅」だったからこそバラバラにできたと。うーん、うまい。

個々でいうと、リックとバイバイしたキャロルをここでタイリースにあてるとは、今思えば王道展開なんだけど、ちょっと予想できなかったなあ。今やグループで一番「割り切れている」キャロルと、一番「割り切れていない」タイリースが、幼い姉妹の悲しい物語をトリガーにしてそれぞれの一歩をみせる。キャロルの告白をタイリースが受け止めるシーンは、これまでの全シーズン通してみても一番グッときたかもしれない。

このように、一見ドタバタのなかで散り散りになったグループは、各々が足りないもの、あるいは余っているものを互いに渡したりもらったりするように計算されて分割されている。そして、それぞれが少しずつ成長して「終着駅」へ辿り着く。人間の成長って、こうやって自分の何かを渡したり相手の何かをもらったりする、そういう交じり合いのなかにしかないんだろうな。渡してばっかり、あるいはもらってばっかりの足し算や引き算ではなくて、たぶんそういう掛け算なんだと思う。

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「本当の自分」と死ぬまでダンス – 『ブレイキング・バッド』感想 https://koeru.jp/2014/11/breaking-bad/ https://koeru.jp/2014/11/breaking-bad/#comments Thu, 20 Nov 2014 13:15:31 +0000 http://koeru.jp/?p=223 すごく面白いと職場の上司から『ブレイキング・バッド』をおすすめされたのは、もうずいぶん前の記憶だと思う。『ウォーキング・デッド』も『ゲーム・オブ・スローンズ』もその上司のレコメンドだったので、その『ブレイキング・バッド』…

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すごく面白いと職場の上司から『ブレイキング・バッド』をおすすめされたのは、もうずいぶん前の記憶だと思う。『ウォーキング・デッド』も『ゲーム・オブ・スローンズ』もその上司のレコメンドだったので、その『ブレイキング・バッド』というやつも必見レベルなのだろうなと近所のゲオに行ってみたものの全然見当たらない。ちょっとマイナーだとは聞いていたのだけど、まさか取り扱っていないとは…。

そのうちどこで情報が漏れたのか、ゲオがいきなりシーズン3までレンタルがしれーっと開始させたのが夏頃のお話。おーっ!この時を待ってましたー!といざ飛びつこうとするものの…肝心の借りれるやつがない!いつ行ってもない!ことごとく貸出中!!このゲオでこいつが入荷する前からずーっとツバつけていたのは私だっていうのにぃー!!(怒)

そんな観たいのに観れない『ブレイキング・バッド』への積年の歯がゆい思いをある日Twitterで呟いたら、親切なフォロワーさんからHuluをすすめられた。どうもそちらでは既に全シーズン揃っているとのこと。おいおいなんだよHulu!超いいじゃん!しかもウォーキング・デッドのシーズン4もあるし!というわけで入会。「動画配信サービスなんて粋じゃないっすよ!店に行くから思いがけない出会いがあるんすよ!」というアナログ根性はまだあるのだが、今回の『ブレイキング・バッド』に限ってはもうゲオに行って「今日はあるかな〜(あってくださいお願いします!)」とやることに疲れちゃったのだ。

というわけで、シーズンファイナル(Huluではシーズン5)までの全62話を先日ようやく観終わった。途中で休憩(『めだかボックス』を読んでた)を挟んだりしていたせいで二ヶ月くらいかかってしまった。

核心と革新

結局のところ、この『ブレイキング・バッド』という作品のテーマとは一体何だったのだろうか。もっというと、世間のみんなはこの作品の何に共感して賛辞を贈っているのか。そんなことを頭の片隅でずっと考えながら観ていたので、そこを中心に考えてみたい。

まずは概要のおさらいから。このドラマは末期ガンの主人公・ウォルターが家族にお金を残すために、自らの知識や才能を遺憾なく発揮して純度の高い覚せい剤ブルー・メスをつくる話なのだが、ウォルター自身の心のなかは彼がつくるそのブルー・メスとは反対に酷く濁っているし、次々と犯罪の泥沼に身を沈めながらそれを更に淀ませていく。それでもウォルターは家族のためという言い訳をしながら、目の前に立ちはだかる「困難」を乗り越えていく。

この「困難」とは犯罪の露呈だったり逮捕の危機であったり、時には命の危険であったりするのだが、それは同時に人として持つべきモラルを取り戻すための回帰線でもある。生きるために越えなくてはならないハードルは、人として越えてはいけないハードルだった。そしてウォルターはそのハードルをすべて乗り越える。もちろん成り行き的なものや悪運もあるのだが、結果的にことごとく乗り越えてしまう。

その過程のなかで、ウォルターは守ろうとしていたはずの家族までをも巻き込み、ずるずると自らが作り出した泥沼へと引きずりこんでいく。これはもちろんウォルターにとって不本意な結果のはずなのだが、そんな思いとは裏腹にウォルター本人はその過程で本来の自分を取り戻していく。朴念仁然とした最初期の頃が嘘のように、ギラギラとした生気を滾らせていく。一時とはいえそもそもの出発点だったガンさえも克服する。

そして最終話、ウォルターは妻・スカイラーにこう言うのだ。家族のためではなく自分のためだったと。自分には才能があり、そこに生きているという実感があったと。ウォルターが最後の最後に本音を吐露する、物語の締めくくりにふわしいまさに総決算といえるシーンなのだが、私はここにこの作品の核心と革新性をみたような気がした。端的にいえばそれは「家族」という価値観への疑念だ。

家族と銃口

人間の行動原理のひとつに「家族」があると思う。それは私も家庭人のひとりとして理解できる。それでも最近海外ドラマをよく観ていて思うのは、向こうの人たちはこの「家族」という行動原理に必要以上に縛られすぎてはいないか?ということだ。ウォルターもそうだが、何をするにも「家族のため」「家族のため」と、まるで呪文かのように唱えるその様には何か盲目的なものを感じるし、ドラマを観る側としては正直辟易するところもあったりする。あー、また「家族」かと。

これは文化の違いも大きいと思うのだが、それでも私は敢えてここで聞いてみたい。なぜここまで「家族」なのだろう?「家族」はそんなにも大事なのだろうか?こんなことを言ったら「家族が大事なんてそんなの当たり前だ!」なんて彼らは怒るのだろうか。しかし、この『ブレイキング・バッド』という作品はその既成概念に対して堂々と銃口を突きつけたのだ。

シーズン1の第1話、死体を乗せて暴走するキャンピングカーが脱輪し、もはやこれまでと観念したブリーフ姿のウォルターは「これは全部家族のためだったんだ。それだけはわかって欲しい」と弁解のビデオレターを撮って残そうとする。そして意を決し、サイレンの鳴る彼方へと銃口を向ける。しかし、姿をあらわした消防車はウォルターなんて見向きもせず通り過ぎてしまう。なんで自分が助かったかわからないウォルターは、とりあえずさきほど撮影したビデオレターを破壊する。

この一連のシークエンスは、全部観終わった後に見返すと非常に象徴的なものであることに気づく。家族を言い訳にし、暴力に走り、悪運に助けられ、さっきまでの言葉を反故にする。ウォルターはこの一連の流れをこのあと何度も何度も愚かしく続けていくのだが、そのウォルターを通してこの作品はずっと我々に問い続けていたのだろう。あなたにとっての「家族」とは何か?それはあなたの人生にとっての唯一解なのか?と。そう、あの時のウォルターの銃口は、画面を突き抜けてこちら側の我々へと向けられていたものだった。

自己実現と本当の自分

ここでさきほどの最終話、例のスカイラーと対峙する場面に話を戻す。前述の通り、ウォルターの答えは「自分」だった。でも、ここまで観ている人ならばみんな、ウォルターが全部自分のためにやっているなんてことはわかっていたと思う。しかし、まさかそれをウォルターにはっきりと言わせるとは思っていなかった。正直いうと私はこのシーンで初めて海外ドラマというものを見直したし、偽善も欺瞞もない本当の声で喋る海外ドラマの主人公にようやく出会えたような気がした。

それはきっとウォルターだけの話ではない。誰しもが少なからずウォルターと同じような「現実への不満」と「自己実現への憧れ」を持っているはずだ。そして「自分は本当に自分らしく生きているのか?」と自問自答を繰り返している。

しかし、たぶん「本当の自分」なんてどこにもいないのだと思う。しいていうなら、今の自分こそが本当の自分なのだ。だから私たちにできることは、本当の自分を取り戻そうとする自己実現ではなく、今の自分を本当の自分として受け入れることだけなのだろう。でないとウォルターのように「本当の自分」という幻影に破滅させられることになる。

でも、その幻影と踊るのもまた人間なのだ。そしてその人間くささが『ブレイキング・バッド』の魅力であり、多くの人の共感を呼ぶ理由なんだと思う。

グリーンとピンク

まさか「ジェシー」とひとつも書かずに『ブレイキング・バッド』の感想を書くことになるなんて思ってもみなかったので、せっかくだから少しだけジェシーのことも書いておきたい。

ウォルターのイメージカラーである「グリーン」と、ジェシー・ピンクマンの「ピンク」は補色の関係にある。補色とは色相環で正反対に位置する関係の色の組み合わせのことで、補色同士の色の組み合わせは、互いの色を引き立て合う相乗効果があり、また最も反発し合う色が補色だと言われている。

この補色の説明が、そのままウォルターとジェシーの関係性そのものだろう。ちなみに、グリーンとピンクは混ざり合うと灰色になる。そしてそんな彼らの腐れ縁が『ブレイキング・バッド』のおもしろさを大きく支えていることは間違いない。

最強と伝説

最後に。『ブレイキング・バッド』と同じく中年オヤジが自らの人生と闘う物語に、福本伸行の『最強伝説 黒沢』というマンガがある。タイトル通り黒沢という中年オヤジが主人公なのだが、これがまたウォルターのさらに上をいくような冴えない男なのだ。しかも黒沢にはウォルターみたいな才能や運さえもない。

でも、黒沢が様々な葛藤を経て至った境地は、ウォルターのそれの一歩先をいっていると思う。もし『ブレイキング・バッド』を楽しめたのであれば、こちらも読んでみることを強くオススメする。はじめは「???」になるかもしれないが、ここはひとつ騙されたと思って最後まで読んでもらいたい。

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