26万分の1の矜持 – 横山秀夫『64(ロクヨン)』感想

横山秀夫の作品はこれまであまり縁がなかったのだけど、最新作『64』の評判がとてもいいので読んでみた。結論からいうと、評判に違わぬ力作だった。

新刊が出るのは実に七年ぶりとのことで、既存の横山ファンの方はもちろんのこと、私のような新規客も十分に楽しめる作品だと思う。分厚めのハードカバーだが、その見た目からは想像できないくらい内容は読みやすいし、読み始めたら最後までノンストップでグイグイと引き込まれていくこと請け合いだ。これからの年末年始には、夜更かしのいいお供になると思う。

今すぐ買って読む価値はあるか

お値段2000円のハードカバーとなると多少のハードル感はあるので、気になるけど文庫待ちという人も多いと思う。私は三年くらい待てるのならそれはそれでいいと思う。たぶん映画化かドラマ化の可能性が高いと思うので、きっとそのタイミングにあわせて文庫化されるだろう。

というのも、結局のところ『64』は面白いけれどハードルを越えてまで「いま読むべき」と感じさせるところはあまりないように思ったからだ。物語を通じて時代性を感じさせる要素はない。それは逆に言えば、時代から切り離しても耐えうる普遍的なテーマが芯になっているということなのだろうけど、それでも私としては若干そのあたりに物足りなさを感じた。

ただ、これはハードカバーに何を求めるかという趣味の問題だと思うので、みんながみんなそう感じるとは限らない。実際のところ、フラットな目でみればとてもよくできた小説だと思うし、横山秀夫の代表作としてこれから警察小説のスタンダードになっていくだろう。10月に発売されたにもかかわらず「このミス」の第一位を大差で飾るあたりからも、業界関係者のウケが抜群であることが窺い知れる。

また『64』は警察に限らず組織のなかで生きるサラリーマンにもいろいろと感じるものがあるように思う。ビジネス書として読むにはさすがに無理がありそうだが、それに近いフィードバックは随所から感じ取ることができるだろう。個人的には家族を持つ父親、特に娘を持つ父親として考えさせられる部分もあった。

26万分の1の矜持

『64』によると全国に警察官は26万人いるらしいが、もちろんその全員が事件を追う刑事ではない。警察の中にも事務職があり、本作の主人公のように広報を職務とする警察官がいる。私は警察小説に詳しくはないのだが、それでも刑事ではなく広報が主人公の警察小説というのは珍しいのではないだろうか。

「主人公が広報官とか、なんだか地味な感じだし、実はそんなに面白くないんじゃないの?」と思う人もいるかもしれない。実際、私も最初はどう面白くなるのかわからなかった。でも読み進めるうちに、広報とか刑事とか関係なくそのひとりひとりがそれぞれの「警察」を背負っていて、その誰もが警察という巨大な組織を動かす歯車として必死になっていることがよくわかる。

主人公もそんな矜恃を持ったひとりの警察官でありながら、また同時にやはりひとつの純然たる歯車なのだ。個人としての信念やプライドと、歯車として逆らわずに動かざるをえない組織人としての“絶対”の狭間で生きることのままならなさは、きっと多くの人にとって身につまされるものに違いない。しかし、それでも限られた選択肢の中から最善を模索することを諦めない主人公の姿は、あらゆる職業人に元気や勇気を少なからず与えてくれるだろう。

私の好きなシーン

『64』にはところどころ胸を熱くさせる場面がある。私は電車のなかで数回、あぶなく涙がこぼれそうになった。特に主人公が部下の集めてきたある情報を記者たちの前で読み上げる場面が好きだ。涙をじんわり滲ませながら、うまいなあ〜と感銘を受けた。それがなんなのかをここで説明してしまうのは非常にもったいないことなので、ぜひ自分の目で確認して欲しい。

『64』にみる売れる本の条件

全然関係ないということもないのだろうが、この『64』という本は表紙がとてもカッコいい。あとタイトルがいい。これだけで、どれだけ作者と出版社が本気であるかが伝わる。失礼だが、私としては今までの横山作品は表紙もタイトルもいまいちピンとくるものがなかった。中身はきっとおもしろいのだろうが、表紙とタイトルで損をしているような気がする。

無口で不器用でとっつきにくそう。そんなこれまでの横山作品のイメージは、そのまま我々にとっての刑事のイメージと似ているところがある。この『64』という作品がそんな刑事、そして警察の「窓」になろうと奮闘する広報官の話であることを考えると、このつい手にとってしまいたくなる装丁は、作品世界やテーマを見事に体現している素晴らしいデザインだと思う。

なお、この『64』はいわゆる「D県警シリーズ」のひとつであり、『陰の季節』『動機』『顔 FACE』の流れに連なる作品でもある。もし『64』を読み終わってもまだ心はD県警にあるという人はひとつ『陰の季節』から読み進めてみてはどうだろうか。『陰の季節』には『64』に登場するあの人やあんな人まで出てくるという話だ。