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きっと、人生の一本になる – インド映画『きっと、うまくいく』感想

すごいすごいと評判で聞いていたが、観てみて納得。本当にすごかった。めちゃくちゃ笑った。そしてボロボロ泣いた。こんなに劇場で泣いたのは久しぶりだ。

青春、恋愛、笑い、謎、社会風刺…入ってないのはアクションくらいで、たぶんおよそ考えられる映画の要素のほぼすべてがここに詰まっている。そして、それが何ひとつとして綻びなく綺麗に繋がっている。それはもうお見事としか言いようがない。エンドロールで「ブラボー!」って叫んでスタンディングオベーションしたくなった。いや、本当に。

インド映画だけど、いわゆる歌パートはそんなに多くない。なので、あの歌パートがどうも苦手だという人でも大丈夫。2時間半というちょっと長めの上映時間も、インド映画にしては短い方なのだと思うので、ここはひとつインド映画だということを忘れて、とにかく観て欲しい。

ただ、観に行くにしても上映してる劇場が少なさすぎる。こんなに素晴らしい映画なんだから、もっと上映館を増やしてもらいたいところだ。だから、もしあなたの街にかかっている劇場があれば、それはとてもラッキーなことなので、DVD化なんて待たずに今すぐ観に行くことをオススメする。たぶんいつかDVDで観た時に「しまった〜!劇場で観ればよかった!」と思うはずだから。

日本人として見過ごせないテーマ

本作は、インドが抱える格差社会の歪みとしての若者の自殺問題をテーマとして扱っている。

急速な経済発展を遂げるインドにおいての貧しさからの脱出策は、学歴をつけて給料の高い会社へ就職することだ。そのために家族は身を粉にして子どもたちの学費を貯めるし、そして子どもたちもそんな家族の期待に応えようとする。

そんな熾烈な競争は日本にも昔からあって、ちょっと前には「受験戦争」なんて言葉をよく耳にしたし、近年でいえば「就職戦争」になるのだろう。そんな日本も今、何でも勝ち組と負け組に二分化しようもする空前の格差社会だ。

ではインドの場合はどうかというと、カースト制度という「下地」がある分、格差の問題は日本のものよりも確実に深刻だろうし、格差社会の上をいく超格差社会と呼べるものだろう。

このように、インドの現在の社会情勢は日本のそれと重なるところが多い。なので、この映画が笑いや涙の影として落とし込んでいる社会風刺や多くのメッセージ、そしてその先にあるであろう「社会における個々の幸福とは何か?」という作品を通しての問いかけは、「自殺大国」で生きる我々日本人にとっても決して見過ごすことができないものがあると感じた。

インドの若者が生きる「戦場」

本作の舞台は、若きエンジニアの卵たちが集う大学が舞台なのだが、ジョイ・ロボという青年が学長に留年を言い渡されて自殺する。その学長もひとり息子も自殺で亡くしているし、主人公グループのひとりであるラージューも学長に退学を迫られた末に自殺未遂をする。

また、ファルハーンも父親に動物写真家になりたいという秘めた思いを伝える時に「自分は自殺しないから安心して」というスタンスで説得する。それくらい、彼らにとって「自殺」は日常の延長線上にある選択肢であり、すぐそこにある言葉なのだ。

競争はそこに必ず勝者と敗者をつくりだす。しかし、その敗北は本当に自ら命まで絶たねばならないほどの敗北なのだろうか。そして、これがインドの若者たちのおかれている現実だとするなら、彼らが生きているそこは競争社会なんてものじゃなく、過酷極まりない本物の戦場だ。

本物の学問

主人公のランチョーはそんな戦場で、隣で机を並べる同窓の仲間ではなく、彼らの心を縛りつけるシステムそのものと戦った。学長と衝突しながら、彼は本物の学問とは何かを親友たちに伝え、そして彼自身もまたその衝突のなかで成長しながら、本物の学問に近づいていった。

私が一番心に残ったシーンは、ベタかもしれないが、ウイルス学長がランチョーに宇宙ペンを譲り渡すシーンだ。そこで学長がかつてランチョーがした「なぜ鉛筆を持っていかなかったのですか?」という質問に答える。「お前は間違っている」と。宇宙では鉛筆の粉が舞うからダメなんだと。ここが一番きた。

きっと入学したてのランチョーはその「鉛筆」で学長から一本とった気にでもなっていただろう。しかし、本物の学問とは決して頓知くらべではない。でも、最後には頓知くらべではない本物の学問にランチョーは辿り着いた。そしてそのことを紆余曲折はあったけれどもちゃんと認めることのできる学長もまた、終始物語の憎まれ役だったが本物の学問を修めた本物の人物なんだと思った。

よく笑い、よく泣くこと。

とにかくランチョーはよく笑い、よく泣く。泣くことに関しては、正直泣きすぎだと思う。こういうスーパーマン的なキャラクターはあんまり泣かないというのがだいたいの相場で、まわりを泣かせはしても自分は常に涼しい顔をしているというのがセオリーだと思うのだが、ランチョーはそんなことおかまいなしに泣く。

ラージューの父親が一命を取り留めたことをラージューがランチョーに感謝する時、ラージューの意識が戻る時、ラージューとファルハーンの就職が決まった時など、ここぞといういいところで必ず泣く。でもそういうところが実に人間味が溢れていていいと思った。

最近「楽しい」ってなんだろう?と思うことがある。それはもちろん考えただけでワクワクしたり、そこに心躍るよろこびがあることのことなのだが、ひとつ思うのは「楽しい」は多分むきだしの心でぶつかっていかないと感じられないものなのかもしれないということだ。

「楽しい」をみつけたいのなら、たぶん人は夢中でなくてはならない。取り繕ったり、格好ばかりを気にしていたら、心の底から「楽しい」と思える瞬間はやってくるだろうか。いや、逆に「楽しい」と思う時に、はたして私たちはまわりの目線を気にしているだろうか。私たちはいつだって笑いたいように笑い、よくわからないけどあふれ出てくる涙を流しているのではないのか。

よく笑い、よく泣くこと。それが人生を楽しむ方法のひとつだとするなら、私もこの映画を観た時のように笑ったり泣いたりすることをもっとためらわないでいたい。心のままに笑い、心のままに涙が流れる人生を生きたい。そう思った。