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煙草の匂いがする大人ジブリ – 宮崎駿『風立ちぬ』感想

宮崎駿が名実兼ね備えた現代の日本を代表する映画監督であることに異論の余地はない。いや、もっとすぐれた映画監督は他にいると言う人もいるかもしれないが、考えてみて欲しい。宮崎駿が一本映画を撮るとあれば、巨額のお金が動きだしてそこにマーケットがうまれ、国民レベルといってもいいような多くの人から高い期待が否応なく寄せられる。そんな強大なプレッシャーと長年にわたって闘いながら作品を発表しつづけている映画監督、いやクリエイターが他にいるだろうか。

そんな宮崎駿の「最新作」はいつも期待と注目と好奇の的だが、今回は他の誰でもない自分自身のために映画を撮ったという。そしてそれは盟友の鈴木敏夫プロデューサー曰く「宮崎駿の遺言状」ともいえる作品であり、しかも主人公の声には宮崎の「弟子(私はあんまりそうは思わないが、なんか世間的にはそんな感じらしい)」であるエヴァンゲリオンの庵野秀明監督を抜擢した。

このように公開前から何かと話題に事欠かなかった宮崎駿監督最新作『風立ちぬ』は、同氏の引退作として噂になった『もののけ姫』以来ともいえる近年にはなかったスペシャルな期待感を振りまきながら満を辞しての公開を迎えたわけだが、いざ幕が開てみるとそこに巻き起こったのは賛否両論の嵐だった。

「今回のジブリは子供向けではない」とかなり前からさんざんメディアが口をすっぱく紹介していたのにも関わらず、劇場で「こんなのジブリじゃない…」とガックリ肩を落とす親子連れはともかくとして、レビューサイトをチラっと見てみた限りでは、スタジオジブリ最大の駄作と喚きたてる人がいる一方で、日本映画史に残る傑作だと称賛の言葉を並べる人もいる。賛否両論はある程度予想していたが、世間の反応は想像以上に両極端なものだった。

そんな喧喧囂囂の様子をみていた時に、タイミングよくテレビの特番をみて観たくなったという友達に誘われたので、じゃあ実際にこの目で確かめてみようと劇場に足を運んでみた。

試される行間を読み解く力

前段が長くなったが、そんなこんなで今夏最大の話題作『風立ちぬ』を観てきたのだが、結論から言えばものすごい映画だと思う。私は機会があれば公開終了までにもう一回くらい劇場で観たいと思わせる何かが、日を追うごとに自分の奥の方からじわりじわりと湧いてくるし、たとえ行かなかったとしても長い年月を経ていつかまた必ず観る日がくるような気がしている。

これは観る人の感性に委ねるタイプの映画だと思うので、誤解をおそれずにいえば、表層をなぞることしかできない稚拙な感性は置き去りにされることだろう。そういう意味で確かに子供向けの作品ではないし、たとえ年齢的に大人と呼べる人であっても、行間を読み解く力がなければこの映画の凄みに触れることはできない。

そうやって今までのジブリ作品のノリを求めて劇場に足を運んだ人は拍子抜けをくらって、その鬱憤をレビューサイトに書き散らして晴らそうとしているのだろうが、私はそれを非常に残念に思う。なぜ読み解くことができない自分を棚にあげて、一方通行に作り手のことを批判できるのだろう。ジブリの呪縛にいつまでも縛られているのは、宮崎駿ではなくそんないつまでも大人になりきれない名もなき子供たちのような気がする。

「味の向こう側」と噛む力

少し脱線する。半分愚痴なので読み飛ばしてくれてもかまわないが、言わずにはいられないので書かせてもらう。

これは映画に限らずどんな物にも通じていえることかもしれないが、最近の風潮として食感がよいもの、もしくは食感のないものが好まれる傾向があるような気がする。テレビのグルメ番組でレポーターが霜降りの牛肉を口に入れた瞬間「柔らかい!」と叫ぶアレ、私にはまるで噛みしめて味わうことの否定をしているようにみえる。

…と書くとちょっと大げさすぎるかもしかないが、それでも私たちは知らず知らずのうちに「噛む」という行為に対して、何かダサくて貧乏くさいイメージを抱いてしまってはいないだろうか。

そんな時、私は思い出すものがある。その昔、自身の貧乏時代の体験談をまとめた自叙伝『ホームレス中学生』が売れまくって一躍時の人となったお笑いコンビ・麒麟の田村裕が、ある時テレビで語っていた「味の向こう側」というエピソードだ。

貧しかった田村家では、ご飯を尋常じゃないくらい噛んで噛んで噛みまくって食べていた。ご飯というのは噛めば噛むほどお米の甘みが出てくるのだが、その甘みもさすがにしつこいくらい噛んでいると次第になくなっていく。しかし、それでもまだ飲み込むことなくただひたすらに噛みつづけていると、ふわっと甘みがする瞬間が一瞬だけまたやってくるらしい。これを田村家では「味の向こう側」と呼ぶのだという。

この話を笑えるおもしろエピソードとしてオンエアーしたテレビ側の意図は今にして思えばあまりおもしろいものではないが、この話を聞いた時、私も確かに笑ったのであまり大きなことを言えない。でも笑ったこと以上に、このエピソードは何か物事の本質を突くような話だなと印象深くおぼえていて、今こうやって噛むことが求められる映画を観てそのことを思い出した。

とはいえ、私はここで『風立ちぬ』を百回も千回も観て「映画の向こう側」を味わえなんて言うわけじゃないし、そもそもそんな単純な話でもないだろ。

目に映るものを、耳に聞こえるものを、まるで口のなかにある氷を溶かすようにして味わうやり方は、とてもつまらないはないものではないだろうかという話だ。味がしないからといってたいして噛みもせず、溶かして流し込むことばかりしていたら、私たちはそのうち何かを味わうことの喜びや幸せを忘れてしまうかもしれない。

田村家の人たちは最初から「味の向こう側」を探すためにご飯を噛んでいたわけではないし、たとえ「味の向こう側」に辿り着いてもそれが特別お腹が満たしてくれるわけでもない。それでも噛み続けたのは、単に満腹中枢を麻痺させるためだけではなく、その一瞬だけ立ちのぼるふわっとした甘みがそんな厳しい現実を笑い飛ばし、自分のことを何か肯定してくれているように感じていたからなのではないだろうか。

諦めずにしつこく時間をかけてする行いには、必ずそういった自分に跳ね返ってくる何かがあると私は信じている。

煙草から読み解く『風立ちぬ』

だいぶ脱線してしまった感じなので、この辺で話を『風立ちぬ』にゆっくりと戻していきたい。

この映画、観た人はおそらくみんな感じただろうが、喫煙シーンがこれでもかというくらいある。主人公の堀越二郎をはじめ、登場人物たちは誰もかれも煙草を吸いまくり。こんなに煙草がよくでる映画は珍しいんじゃないだろうか。

まあ、昔は喫煙率が今と比べものにならないくらい高かったはずだ。気になったのでちょっと調べてみたら、明治から昭和初期の頃までの男性の喫煙率は…なんと約90%!驚愕の数字だ。ここまで高いとなると、もはや煙草を吸わない人が「なんで煙草を吸わないの?」と聞かれる感じだったのだろう。大人の証しみたいな、イスラム圏でいうところのヒゲみたいなところも大いにあったはずだ。

なので『風立ちぬ』にことさら喫煙シーンが登場するのは、ヘビースモーカーとして有名な宮崎駿の趣味というより、舞台となっている昭和20年代の空気を忠実に切り取るための必然といえる。そして、そんな数ある喫煙シーンのなかでもとりわけ印象的なのが、物語の終盤で主人公・二郎が結核を患い床に伏せる妻・菜穂子の横で煙草を吸うシーンだろう。

ここは賛否両論の最大の焦点ともいえる問題のシーンらしいのだが、私はここにこそ一番わかりやすいカタチでこの『風立ちぬ』という映画の素晴らしさが凝縮されていると思う。なので、これを「結核の人の横で煙草を吸うなんて信じられない!」と短絡的に切り捨てるのはあまりにもったいないし、それこそ行間が読めていないことの証拠だと思う。

まず、二郎は計算尺を片手で扱うことに慣れていること。「もし片手で計算尺を使う大会があったら優勝できるよ」みたいなことを二郎は自嘲気味に言っているが、それはつまり二郎は一方の手で菜穂子の手を握りながらもう一方の手で製図をするのが、この夜が初めてではなかったということだ。

計算尺を片手で使って製図することが一体どのくらい大変なことなのかはわからないが、間違いなく両手で使った方が効率はいいはずだ。それなのに、仕事の虫ともいえる二郎がたとえ思うように仕事ができなくてもそれでも手を繋いでいたいと思っていて、菜穂子がこれ以上気を遣わないように大会で優勝云々などとわざわざ冗談なんかを言って、「片手でも全然大丈夫だよ」とそれとなく伝えようとしている。ここに二郎の菜穂子へ対する愛情の深さを見る。

「だったら仕事なんてしないで、両手でしっかり握り返してやれよ二郎!」と思う人もいるかもしれないが、それは違う。菜穂子は自分の運命に二郎を巻き込むことを望んでいない。本心では夜通し手を繋いでいてもらいたいと思っているかもしれないが、自分の手を握る二郎の手が何をできるかも菜穂子はちゃんと知っている。そして二郎もまた菜穂子のそういう健気さや聡明さと、自分の手の中にある使命を知っている。だから半分でいいのだ。

次に、二郎が煙草を吸ったのがこの夜が初めてだということを忘れてはいけない。今までもきっと二郎は菜穂子の横で煙草を吸いながら仕事をしたいと思っていただろうが、さすがに病人の隣で吸うのは「悪いこと」という認識は持っているので言わなかったということが、この時の会話から窺い知ることができる。でも宮崎駿はこの夜は二郎に言わせた。煙草を吸っていいかと。

なぜ宮崎駿はこれまで幾度となくあった夜のなかから、わざわざ二郎に煙草を吸わせたこの夜を切り取ったのか。それは「右手で計算尺を使いながら、左手で結核の妻の手を握る戦闘機の設計士」だけでは「足りない」と思わせる何かがあったからだろう。そしてその足りない何かを埋めるのが煙草だったはずだ。ここで二郎に煙草を吸わせることで宮崎駿が描きたかったのは、ふたりが辿り着いた諦観の境地と、その先にある決別への声なき預言ではないだろうか。

また、このシーンで菜穂子は二郎の横顔を下から見上げ、二郎はそんな菜穂子の視線を感じながら戦闘機の図面に視線を落としている。そうやってお互い違う方向を向いているのだが、繋いだ掌の向きは一緒だ。このように、ここではふたりの意思が方向性を持ち、交錯している。そしてその間を無軌道にたゆたう煙草の煙が加わることで、より複雑なものとなっている。それはまるで心のままに生きることのままならなさを表現しているような気がするのは、ちょっと深読みがすぎるだろうか。

煙草による演出はそれだけではない。一瞬一瞬を刻む込むように生きようとする運命への抵抗と、それでも自分の運命を悟り、それに殉じようとする従順さ。このふたつの混ざり合うことのない矛盾を、目に見える動作や煙だけではなく、目に見えない煙草の匂いでもってさらに多角的にコーティングしたかったのではないかと思う。ただ単に「愛」の一言でかたづけてることを許さず、人間の業や矛盾が透けてみえるむき出しの姿をパッケージングして投げかけるために。

そんなふたりの後ろ姿でこのシーンは締めくくられ、二郎はどんな顔をしながら戦闘機の線を引いていたのかを我々は知ることはできない。しかし、その顔は私たちひとりひとりの頭のなかに、各々の死生観の分だけあるはずだ。そこに答えはないし、なくてもいい。

庵野の起用とその演技について

その第一声には本当に席から滑り落ちそうになったのだが、不思議と中盤以降は気にならなくなり、終盤では庵野以外考えられないかもと思えるくらい個人的にはしっくりきた。

多分、堀越二郎という人の超然とした感じが、庵野の朴訥とした演技(ともいえない演技)にピッタリ合っていたのだと思う。周りの芸達者な声優陣よりひと回りもふた回りも浮いた存在であることが、そのまま堀越二郎の役作りになっているといえる。

大人になった私たちへのプレゼント

この映画は、ひたむきに生きたひとりの人間の半生、ただそれだけを描いたものだ。なのにそれがこうも憶説を生み出し、感想を語らせ、そうやって観た者に三者三様の何かを抱かせるのだから宮崎駿はやっぱり凄い。

観る者の感性に委ねる部分が多ければ多いほど、ここはこう観てもらいたいという作り手のわがままは通りにくくなり、メッセージは伝わりにくくなる。でもこの映画はそれはそれでまたよしとしているような感じを受ける。

そうやって私たちを試しているような気がするし、もっといえばたぶん信じてくれている。だから私たちはその淡い期待に応えてあげなくてはならないと思う。ナウシカとラピュタとトトロで育った私たちが大人になり、そんな大人になった私たちのための映画を宮崎駿が作ってくれたのだから。