異質を超越する勇気 – コーエン兄弟監督『ノーカントリー』感想

非常に味わい深い、何度も観れるし観たくなる傑作だと思う。個人的にはオールタイムベスト級。原作を読んでいないのでどこからどこまでがコーエン兄弟による部分なのかは判断できないが、なんていうかもう全編に渡って文学的ともいえる緻密な演出が冴え渡りまくっている。

例えば、モス(ジョシュ・ブローリン)の登場から水を持って戻るまでのシークエンス。セリフではなく行動のひとつひとつでモスという男のひととなりを意匠的に説明している。作品中盤の入国審査官とのやりとりでモスがベトナム戦争の帰還兵だということがわかるのだが、その「ベトナム」という一言が持つ情報量にはじめから頼らず、まずは観る者の想像力に委ねようというコーエン兄弟の演出が冒頭から静かに炸裂している。「人を選ぶ」といわれるのはこういうところだろう。

とはいえそんな偉そうなことを言う私にも、あまりにハイセンスすぎて意味がよくわからないシーンも多々あったりする。例えば、モスを追う途中にシガー(ハビエル・バルデム)が橋の欄干で羽根を休める鴉に銃口を向けるシーン。シガーは自分のなかにある厳密なルールに則った殺人しか犯さない殺し屋なので、本来であればただそこにいただけという理由で気まぐれに鴉なんかを撃ったりしないはずなのだ。

もしかしてらこれは後半になるにつれて濃くなっていく「シガー=不条理な死の象徴」というイメージのための布石なのかもしれないが、私には特に深い意味のない悪ふざけのようにも見える。これは我々でいうところの「鳩がいっぱいいるところにわざわざ歩いていって鳩が逃げ出すのを楽しむ」的なもの、つまり自分より弱い者を脅かしその反応を楽しむ悪戯であり、誰でも一度は経験があるのではないだろうか。そういう意味では何ら特別なこともなく、むしろありふれた人間らしい行動といえる。

よってこの鴉のシーンは、記号化するシガーの人間としての普遍性を描いた非常に複雑なシーンだというのが私なりの解釈なのだが、それでもこれも正解ではないのだろう。おそらく答えは観た人の感性の数だけある。そしてそういったシーンの数々がこの作品をより豊潤なものにし、また味わい深くしているのだと思う。

異質を超越する勇気

原題は『No Country for Old Men』。ざっくり意訳すると「もはや老人の住む国にあらず」といった具合だろうか。ただ、ここでいう「国」とは純粋に「国家」というよりも「時代」という意味に近いように思う。そして「老人」とは言わずもがな老保安官のベル(トミー・リー・ジョーンズ)のことであり、そのベルの独白で始まりベルの独白に終わるこの映画は、ひとりの男が時代から取り残された自分をそれでもよしとする、そんな諦めの境地に至るまでの足跡を描いた物語といえるだろう。なのでモスとシガーの追いかけっこは作品としてはメインどころに違いないが、物語的には真の主人公であるベルの最後の事件といった位置づけでしかない。

シガーの目的はモスが持ち去った金を取り返すことであり、そのためには手段を選ばない。なのでシガーの殺人はすべてその目的のための手段であり、シガーなりの理由や行動原理に基づいた上での結果であるのだが、ベルにはそれがわからない。行く先々で死体の山を築き上げるシガーのことを、本当にいるのかどうかもわからない幽霊のようなものだという。

でもそれは違う。シガーだって銃で撃たれれば怪我もするし、交通事故にあえば骨折だってする生身の人間なのだ。ベルがシガーの影さえ踏めないのは、辿り着くだけの力がベルにないからであり、もしくは最初から本気で踏みにいく勇気がない、あるいは失ったからにすぎない。

人間は社会で生きていく上で、自分の価値観と違う異質なものと折り合いをつけながら生きていく術を持っている。しかし、いつの日かその異質をどうしても認められない時がくるのだろう。それは年齢と共に衰えていくバイタリティに因るところが大きいのだろうが、先に述べた通り勇気の問題でもあるのかもしれないとも思う。自分にとって理解不能なものをわからないと棚上げし、異質を乗り越えようとする勇気を持てなくなったら、それはもう歳をとっていようとなかろうとこの社会では行き場のない「老人」なのだ。