ワールドからライフへ – 『劇場版 SPEC 結 爻ノ篇』感想
前エントリーでけちょんけちょんに扱き下ろしたのにもかかわらず、懲りずに行ってきた。しかも公開二日目に。自分でも倒錯していると思う。でも、たとえ予想通り酷くても、これで最後だから全部ひっくるめて許せる気がしていた。TVシリーズが終わってから約三年。なんだかんだ言いながらもここまで長い間楽しませてもらったことには変わりない。だからこれが最後のお布施だ。
自ら面白さを放棄した劇場版SPEC
※ここから先はネタバレも含まれます。気になる方は観てから読んでください。
まずはザックリと感想。映画としての出来は『漸』よりはちゃんとしてる。まあ『漸』が酷すぎたというのもあるが。なので『漸』まで観た人は『爻』も観てもいいと思う。一応ちゃんと物語に決着はついている。
とはいえ、ツッコミを入れ出せば切りがない。たとえば「一体お前らはいつまで警視庁の屋上にいるつもりなんだ!」とか。たぶん映画の半分以上は警視庁の屋上だったと思う。結果、設定としてはオープンスペースだけど限りなく密室劇みたいな、人類の命運をかけた戦いのはずなのに個人の思いようや頑張りひとつで決着がつく、そんなセカイ系のノリにもう気持ちが全然ついていけなかった。
個人的に一番あちゃ〜と思ったのは、スペックホルダーを人間の進化系ではなく、人間とは根本からかけ離れている全くの別ジャンル(物語的には「先人類の末裔」らしい)にしちゃったことだ。この最終決戦は「人間の可能性を信じる者と、閉ざそうという者の戦い」ではなかったの?野々村係長、何度もそう言ってたじゃない?当麻もあれだけ「人間の脳は通常10%しか使われてない〜」云々言ってたじゃない?
そもそもSPECって、既存の法律や常識ではかることのできない超能力を持った犯罪者に対して、法の番人たる警察が知恵と勇気でどうやって戦うかという話だったと思う。相手は超能力者なわけだから、そりゃあ普通にやったら確実に負けで、そこで「じゃあどうする?」と当麻は答えを探しに硯へ向かうんだけど、その「じゃあどうする?」のところにこの物語のおもしろさがあったはずだ。
残念ながらこのあたりの構造は、当麻がスペックホルダーだと発覚する『翔』であっさり破綻していて、以降はご存知の通りただの超能力者戦争にスライドしていくわけだが、それでも「スペックホルダーは人類の可能性のひとつ」という定義だけは崩しちゃいけない最後の砦だと思っていたので、こうも何の伏線もなく「スペックホルダーは旧人類の末裔!お前らとはDNAレベルで違うまったくの別物!」とかいきなり言われても正直ためいきしか返せない。
これじゃもう「人間の姿をした宇宙人が地球に侵略してきて、先に来ていた宇宙人と戦争する」ってのとたいして違いはない。私が観たかったのはそんな宇宙戦争じゃなく、ジョジョで例えるなら第4部で吉良吉影と川尻早人の戦いみたいな人間の知恵と勇気を振り絞ったシビれる戦いだった。「スタンド使いじゃなくたってラスボスと渡り合えるんだぜ!人間ってすごいぜ!」と思わせてくれる、そんなわかりやすい人間讃歌だったと思う。
「行きましょう朝倉」について
最後の最後に放りこんできた「行きましょう朝倉」だが、これに当惑したケイゾクからのファンは少なくないと思う。
このブログにも「朝倉 SPEC」で検索して以前のエントリーを読みに来てくれる方がコンスタントにいる。せっかくなのでこの「行きましょう朝倉」について個人的な見解を少し書いておきたい。
結論から言うと、この「行きましょう朝倉」には何の意味も答えもないと思う。では、なぜそんな意味のないワードをいきなり放りこんできたのか?これはおそらく「最後に朝倉とか入れたらみんなビビるんじゃね?」くらいの短絡的な悪ノリと、またいつか新シリーズを作るために蒔いた種だと思う。
もし新シリーズがあるとすれば、また10年後あたりだろうか。その頃にはきっとプロデューサーの大好きなエヴァも新劇場版がきっちり終わっているだろうし、ジョジョも今のジョジョリオンどころかまだ見ぬ第9部まで終わっているかもしれない。たぶんまたそのあたりからインスパイアしまくってこの「行きましょう朝倉」の意味を後付けするんじゃないかなと思う。
もちろんこれらはすべて私の想像であって、答えではないのであしからず。ただ、先に書いたようにおおよそ答えが用意されてると思えない謎(本来そういうのは「謎」って呼べないんだけどね)なのだから、もう各々が勝手に想像して楽しめばそれでいいのではないだろうか。
朝倉はスペックホルダーだったとか、いやいや単なるスペックホルダーじゃないとか、朝倉がセカイだったとか、いやいやそれ以上のガイアレベルの何らかの意志的存在だとか、とかとかとか。なんと言っても「瀬かいはひとつではない」らしいから、もう何だってアリ。しいていうなら、私は「朝倉」は「悪意」の別名なのかなと思った。
ワールドからライフへ
これはこの映画に限った話じゃないが、セカイ系とかもうウンザリだと思った。そしてこのように「世界の終わり」という言葉がかつてのように蠱惑的に響かないのは、私の中での「世界」の捉え方がこの10年でパブリックでマクロな「ワールド」から、プライベートでミクロな「ライフ」へとシフトしてきたからのような気がする。
もし自分が何の変哲もない一匹の蟻だとするなら「この世界をどうするか?」なんてビッグテーマに頭を悩ませるより、この世界を丸々受け入れた上でその中で「自分がどう生きるか?」を考えるだろう。だから究極のところ、世界なんてどうなってもかまわないのかもしれない。それはひとつの諦観であり、また然るべき現実でもある。
しかし、私たちは蟻ではなく人間だ。だから蟻のように「どう生きるか」という「How」の精神で人生をやりぬこうとする姿勢は生活者としてとても正しいと思う反面、それだけだと人間としてつまらないものになりはしないかと不安に思ってしまう。それはきっと人を人たらしめるものが「なぜ生きるのか?」という「Why」の部分、つまり哲学にあると信じているからだろう。
そうやって生活と哲学の間で懊悩しながら、そのどちらにも振りきれることなく適度な距離感を保ちながら生きていくしかないと今日もまた思うのであった。最後はSPECと全然関係なくなってしまったけど、これでおわり。