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悲しみに耳をかたむけて – いとうせいこう『想像ラジオ』感想

えらく評判がいいとのことで読んでみた。いとう氏の作品を読むのはこれが初めて。扱っている直接の題材は東日本大震災のことなのだが、もっと広い意味での生者と死者との関わりあいについて書かれている作品だと考えてもいいと思う。これが実に16年ぶりの新作小説ということで、そこまで重かった筆を持たせるくらい、震災はいとう氏にも深い爪痕を残したということだろう。

内容の方は、うーん、どうだろう。世間の評判にほだされて、いつの間にかハードルを上げすぎていたせいなのかもしれないが、ピンとはきたが思ったほどグッとはこなかった。なので、読んでみてもいいとは思うが、「必読」はちょっといいすぎかな。

扱っているテーマの重さのわりには語り口がポップで、どこかいとう氏の参加する□□□(クチロロ)のアルバムを聴いているような感覚にも似ている気がした。なのでこれは氏の創作物の特徴なのかもしれない。

『想像ラジオ』というラジオ

感覚的なものなので伝えるのがとても難しいが、この『想像ラジオ』という本は、最初から最後までなんとなく「あるある」ネタを読んでいるような気分がした。

作中の想像ラジオに届くリスナーの声も、DJアークの自分語りも、散りばめられている断片的な物語の数々も、どこかで聞いたことがあるように感じるものであったりする。どれもいかにもありそうでそれっぽい話なのだ。

でも、それって実はすごくラジオ的だといえる。ラジオはそうやってレンジの広い話題でイメージを喚起させる共感のメディアだ。なのでラジオDJはリスナーたちの共通認識に沿うような言葉を選び、物語を選び、曲を選ばねばならない。

本書もまた作者であるいとう氏が、読者である我々の想像力という周波数にあわせて言葉や物語や曲を選んでいる。だからこの本はラジオをそのものだといってもいい。

生きていることの罪悪感

それはかつて8月6日や8月9日であり、また1月17日もそうだと思うのだが、日常が崩れ去り、多くの人が亡くなったという現実と向き合う時、我々はいま自分が普通に生きていること自体に対する罪悪感に苛まれたりはしないだろうか。

私にはそういった罪悪感がしこりのようにずっとある。これは多かれ少なかれ、すべての日本人に共通して当てはまることだと思うし、本作もいとう氏のそういったしこりから生まれた物語なのではないかと私は勝手に想像している。

私は今でもNHKでやっている復興活動の番組を時々観るし、ニュースやドキュメンタリー番組などの震災特集はけっこう意識的にチャンネルをあわせている。もちろんそれは自分が震災や復興に対して興味や関心(といっては失礼かもしれないが)があるからだと今まで思っていたが、はたしてそれだけなのだろか。

それはもしかしたら、日本人として、いや、今も何不自由なく暮らすひとりの人間として、知っておかねばならない、記憶せねばならない、忘れてはならないという強い義務感によるものではないのか。そしてこの義務感は、たぶん先に述べた生きていることへの罪悪感に根ざしているのではないか。本書を読みながらそんなことを思った。

悲しみを越える力

でも、きっとそれは罪悪感だけでもないのだ。私のように直接傷つくことのなかった人たちが、こうやってメディアを通して悲しみにチューニングしようとするのは、贖罪のためだけではなく、そこから何か学ぼうとしているからでもあると思う。

そこにはきっと自分に跳ね返すことのできる確かな教訓があり、私たちはそこから何かしらのフィードバックを得ようとしているしている。だから、想像ラジオの電波は決して悲しみだけではない。一緒に悲しむ力だけではなく、悲しみを越えていく力でも私たちはちゃんと繋がっていけるはずだ。