『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』感想

「冒険」という二文字に、私たちはいったい何をイメージするだろう。ジャングル、アマゾン、インディー・ジョーンズ。イメージするものは人それぞれ違うだろうが、私のなかの冒険はいつもテレビの向こう側だったり、本やゲームや映画の中だったりする。冒険は私にとって遠い言葉だ。

だが、たとえば「世界の果てまでイッテQ」でイモトアヤコが地球の裏側のジャングルで大蛇の捕獲に奮闘する姿を、羨ましく思いながらみている自分も確かにいる。それはテレビのロケだから冒険とはかけ離れているかもしれないが、それでも日本から遠く離れた森のなかでマズそうなヘビ汁を啜り「まっじぃ〜!」と叫びながら啜るイモトが、全然羨ましくないんだけど、なんだかとても羨ましい。

もちろん私は実際に伝説の大蛇を捕まえたいのでも、アマゾンの奥地でグロテスクなヘビ汁を啜りたいのでもない。たぶん聞いたことのない場所で、見たことのないものをこの目でみたいのだと思う。そう、この目で。そしてそういった願望は、好奇心よりも一歩手前のところから湧き出ているような気がする。もっと原始的で衝動的な匂いを醸し出して。

でもその願望は非常に刹那的でもあって、悲しくなるくらいすぐに忘れる。そんなのまるではじめからなかったかのように。だからこの足はここから動かない。つまるところそれは、私にはいつもの平穏な毎日を投げ打ってまで、そして自分の命を天秤にかけてまで見つけたいチベットの山奥の幻の滝なんて地球上にないということだし、そもそもそんなバイタリティーも度胸もない。心ではなんと思おうと、冒険はいつまでも明日の向こう側にある遠い言葉というところから動かない。

きっと決定的に「こちら側」の人間なんだと思う。冒険がまるで対岸で打ち上がる花火のように、いま私が立っている「こちら側」にないとするならば、本当にチベットの山奥に幻の滝を探しに行ったツアンポー峡谷の冒険史に名を刻む先人たちは、そしてこの『空白の五マイル』の著者である角幡さんは、はたして「あちら側」の人間なんだろうか?本書を読みながら考えていたのは、昔から漠然と感じていたこちら側とあちら側を分かつ境界線についてだった。

「若きカヌーイストの死」について

本書の読みどころは、もちろん角幡さんのツアンポー峡谷での冒険部分なのだろうけど、個人的には第一部の「若きカヌーイストの死」の章なのかなと思う。この章以外にも角幡さんは折にふれてそれまでのツアンポー冒険史をひとつひとつ丁寧に取り上げてくれるのだが、この章だけは少し雰囲気というか温度が違うような気がする。角幡さんの飄々とした文体が、ここだけ冷静で観察的なのだ。

それはツアンポー川の本流に飲み込まれて亡くなったひとりの若き冒険者の死に、「冒険とは何か?」という永遠の命題や、「なぜ死ぬかもしれない冒険に出かけるのか?」という冒険者としての業を解き明かすためのヒントがあると、同じ冒険者として角幡さんが直感的に感じているからのように思える。それをみつけるためにあえて距離をおいて眺める若干醒め気味のジャーナリスティックな視線は、逆に可能性としてのもうひとりの自分をそこに感じているからこその冷静さではないだろうか。

ではそれを読む私はというと、角幡さんとはまた別の目線で、ここに自分が漠然と感じていたこちら側とあちら側を分かつ境界線をまたひとつみつけたような気がしたし、同時に境界線なんて無いのかもしれないという思いも抱いた。それくらい彼の選択と行動には迷いがないように思えたし、頭で考える前に身体が動いたようなそんな本能的なものを感じた。

そして角幡さんが見つめる通り、もしそこに冒険の本質的なものが滲み出ているとするのなら、真の冒険とは人間の手にあまるものだなと私は思う。でもきっとだからこそ冒険はこれからも冒険であり続けるのだろうし、たとえこの世のすべてがグーグルアースで切り取られることがあったとしても、この世から冒険はなくならない。そんな気がしている。