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「宗教」を巡る信仰と祈りの彷徨 – 篠田節子『仮想儀礼』感想
最近またオウム裁判のニュースを目にする機会が増えたことで、昔から感じている宗教に対する漠とした疑問が頭をもたげる。だからきっとこのタイミングで『仮想儀礼』という新興宗教を題材にした小説を手に取ったのだろうと読み終えた今にして思う。
それは予想以上にタイムリーでクリティカルな読書になった。上下巻合わせるとなかなかのボリュームの大作なのだが、まったくと言っていいほど息つく暇がなく、奇跡のようにずっとおもしろい。
上巻はまるで一種のサクセスストーリーかのよう読める。何もないところから思いつきではじめたビジネスとしての宗教が、それでも着実かつ加速度的に大きくなっていく様はまるで現代版『わらしべ長者』ともいえるおとぎ話のようで、自然とページをめくる手が止まらない。
そうやって上巻一冊分使って築き上げられた張りぼての城が、下巻に入るや否やガラガラと音をたてるように崩壊していく。しかしこの作品はここからが読みどころといってもいいくらい圧巻なのだ。
狂っているのはどっちだ?
これまで主人公に寄り添って物語を読み進めた私たちは、白が一瞬で黒になるそのスピードの残酷さや、大衆の無責任さや無慈悲さに打ちのめされるだろう。そして私たちはいつの間にか聖泉真法会という宗教の内側から社会や世間を見て戦慄していることに気づく。目の前を覆っていた薄皮がペリペリと剥がされていくような感覚さえ覚えるかもしれない。だとしたらその薄皮は宗教に対しての既成概念のように思う。
このように物語はそれまでの「グイグイ読ませる良質なエンタメ小説」という体裁を保ちながらも、狂気と狂信の先にある宗教の本質的な部分にメスを入れていく。それを専門書ではなくこのような小説という方法で描き切ろうとする作者の気概とその熱の込もった筆致に感服する。
温かい給食と生活のなかの信仰
ラストは電車で読んでいたのだけど、人目を気にしながらも涙が滲むのを止められなかった。なんて美しい幕引きだろう。文庫版のあとがきにも書いてあるが、やたらめったに遣いたくない「奇跡」という言葉が自然と浮かんでくる。そしてこんなラストシーンを書くことのできる小説家という人種は本当に特別な存在だと思った。
かつての狂信から抜け出し、出所後も身を寄せ合って生きるその後の彼女たちの穏やかな暮らしぶりが、お年寄りたちに評判だという彼女たちの作る給食の温かさから自ずと伝わってくる。そしてこの温かさが妙に尊いものに感じられ、なぜか信じたくなるのだ。
そして最後の一行。毎日米を研ぎ、惣菜をつくり営業に回る。そんなごく当たり前の生活のなかにも信仰は溶け込んでいてもいいんだと、作者は最後に言いたかったのではないだろうか。いやむしろ、自分の内に秘めた神仏とほどよい距離感で付き合いながら生きることこそ、人間としての正道であると説いてさえいるように感じる。
マスターを探し求めて彷徨う旅
同じく新興宗教を題材にしたポール・トーマス・アンダーソン監督の『ザ・マスター』という映画があるが、監督自身が「人は何かマスターという存在なしに生きられるか?もしその方法があるなら教えて欲しい。我々誰もがこの世をマスターなしで彷徨えるとは思えないから。」という言葉を作品観賞の手引きとして寄せている。
私はこの『ザ・マスター』を観た時に「マスターとは自分の人生の主人は自分であると忘れないことだと思うし、そういう意志であり、思考であり、また感触なのではないだろうか。」と解釈した(詳細はこちら)が、『仮想儀礼』を読み終えた今、ここでいうマスターを純粋に教祖もしくは指導者と考えてもいいような気がしてきた。
『仮想儀礼』の彼女たちが特別ではなく、きっと誰もが心のどこかで自分のマスターを探し求めている。それは信仰心というものがすべての人に基本機能として備わっているからだろう。あまり信心深いといえない私でさえ時には給食の温かさを信じたくなるように、私たちはたぶん何でも信じることができるのだ。それはまるで豊かな想像力を持ってしまったことの代償を信仰というかたちで贖っているかのようでもあるが、それでも人は何かに何かを祈ることをやめられないのだと思う。