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大人になってからあらためて読む『るろうに剣心』
ちょっと前の話かもしれないが、映画化のおかげで『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』が久しぶりに日の目を浴びている。『るろうに剣心』はいわずもがなジャンプ黄金期を支えた名作のひとつで、ジャンプSQでは「るろうに剣心 -キネマ版-」というタイトルでリメイクが連載中らしい。書店のマンガコーナーで文庫版が平積みされているのをみてなんだか懐かしくなり、せっかくなので完全版で読み返してみた。連載時にジャンプで読んでいたきりなので十数年ぶりの再読となる。
物語のところどころで「十本刀の不二って、これエヴァンゲリオンの影響だな〜」とか「八ツ目無名異ってスパイダーマンのヴェノムそのままじゃん!」など、当時は気づかなかった和月氏の趣味とかノリが垣間みえたりしてちょっとニヤリとする。連載を読んでいた頃はプロットなんてもちろん全然意識してなかったし、正直どのキャラクターが好きとかどの技がカッコいいとかそういう目線でしか読んでなかったので、こうやって大人になってから子供の頃にハマったマンガを読み返してみると結構いろいろな発見があっておもしろい。
京都編と人誅編の対比
『るろうに剣心』は全体的にみると大きく三つのパートに分けられると思う。物語序盤の東京編、志々雄真実の京都編、そして雪代縁の人誅編の三つだ。そしてこの京都編と人誅編が非常に対照的なパートとして描かれていることに気づく。
京都編が『るろうに剣心』というマンガ全体を通して最大の盛り上がりをみせることに異論はないだろう。志々雄真実という魅力的なライバル造形にしろ、志々雄が率いる十本刀たちの個性的なキャラクターにしろ、すべてがマンガのお手本のようによくできている。また、必殺技や奥義が飛び交うわかりやすいバトルマンガの構造のなかに、時代の変遷期における人々の悲哀やイデオロギー闘争などを交えることで、明治を舞台にしていることの意味が活きてくるし、作品のオリジナリティとして見事に結実していると思う。剣心も志々雄も十本刀も斎藤も、それぞれが己の信じる正義のために刀を振るっていた。だから彼らは強く格好良くみえたし、読む者を引き込む力があったと思う。
対する人誅編はどうかというと、最初から最後まで時代性から切り取られたありきたりで普遍的な復讐劇でしかない。京都編のように舞台が明治時代である必要性が人誅編には感じられない。核となる雪代縁も志々雄のようなカリスマ性や魅力を感じることができないし、あまつさえ他の仲間たちも実力者のいない色物集団にしかみえないので、京都編という修羅場をくぐり抜けた剣心たちが負けるようにはとても思えない。この敵の怖くなさ加減は、バトルマンガとして致命的ともいえるだろう。
足し算なき超越
このような人誅編の設定は、はたして和月氏による意図的なものだったのだろうか。ここからは想像だが、私は意図的なものだと思った。結果として致命的な部分が露呈することになってしまったが、それでも和月氏は無理矢理にでも京都編と人誅編を対照的な物語として描き分けようとしていたと思う。それはなぜなのか?
まず京都編をひとつのバトルマンガの完成形、あるいは作品の到達点として、それ以降の物語は力のインフレを起こさずに人間の強さを描き分けたかったのではないかと思う。強い敵を倒したらすぐにそれよりもっと強い敵が現れて、それを倒すために修行して、新しい必殺技を覚えて…というのがジャンプのバトルマンガの王道セオリーだが、そのように新しく何かを加えたり付けたしたりすることなく、いま持ち合わせているものだけで何かを超えるということを剣心を通して描きたかったのではないだろうか。だから人誅編には修行シーンも新しい必殺技も登場しない。剣心の最強必殺技は京都編と変わらず天翔龍閃のままだ。
剣心にとって雪代縁との戦いは、自分の過去と向き合い、贖罪だけではない新しい生き方をみつけるための戦いだったといえる。人誅編の真の敵は雪代縁ではなく、ほかならぬ自分自身だった。ならば新しい必殺技を覚える必要ない。自分を倒すのは昨日よりも強い自分だから。和月氏はそういった足し算なき超越を人誅編で描きたかったのではないだろうか。たとえそれがマンガ的には盛り下がることになるとわかっていても、時代に翻弄されたひとりの人斬りの物語を締めくくるラストエピソードとして描かずにいられなかったのではないかと、大人になってから読み返してみて気づかされたような気がした。