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『弱虫ペダル』の御堂筋翔くんは何と闘っていたのか

いきなりだが『弱虫ペダル』というマンガの真の主人公は小野田坂道ではなく御堂筋翔くんだと勝手に思っている。なので25巻で御堂筋くんの闘いを見届けた今、私のなかの『弱虫ペダル』は終わった。

個人的には今泉よりも坂道との勝負を期待していたので、不満がないといえば嘘になる。だが、もともと御堂筋くんは今泉の宿敵という設定だったので、ふたりの対決とこの結果はあらかじめ決められていたのかもしれない。でも、もし御堂筋くんと坂道の自転車を突き詰めたところにゴールがあったとしたら、『弱虫ペダル』は自転車マンガという枠を超えた傑作になっていたと思う。そんな気がする。

自転車の申し子たち

自転車と人間の孤独はよく重ねて語られる。自転車は基本的に自力で動かすしかない。進むも止まるもすべてが自分次第な「個」の乗り物だ。もし自転車の本質が孤独だというなら、今までずっと「集団」とは相知れぬ“はぐれ”だった坂道と御堂筋くんは完全無欠なる自転車の申し子だともいえるだろう。

彼らの無尽蔵にも思えるパワーの源泉は、誰かに認めてもらいたいという強烈な自己顕示欲と、それに相反する自分という存在への執着のなさが混ざり合ったところにあるように思う。それはおそらく純粋無垢な孤独の結晶体であり、決して簡単に砕けるものではないだろう。だからこそ惜しみなく自分を削ることができるのかもしれない。彼らは自分を削ったカスを燃やしながら走るのだ。

孤独という名の怪物

誰からも必要とされていない恨み節と同一線上にある、誰かを振り向かせるための努力。その健気さ。そして純粋さ。自分にはまだ捨てられるものがあると頭を丸めるそんな御堂筋くんをみていると、なんだか胸が苦しくなる。どうしてもっと簡単にわかりあえないんだろう。なんで坂道みたいに素直になれないんだろう。

でもそうやって孤独をこじらせて、それをエネルギー源にして生きている様、負けるかと息を巻く姿は御堂筋くんだけのものではないことを私は知っている。それは孤独という名の怪物との共闘だ。

私たちは常日頃からなるべく孤独にならないように生きようとする。もしかしたら人間はもともとそういう風にできているのかもしれないが、私たちの社会は孤独を忌み嫌い、排除し、他者と手を取り合って生きることを勧めてくる。でもそんな社会にうまく溶け込めず、輪から外れてしまった“はぐれ”は怪物に力を借りて世界に復讐を企てる。それが御堂筋くんだ。

御堂筋翔くんは何と闘っていたのか

誰も認めず、誰からも認められず、世界を敵にまわすしかなかった御堂筋くん。御堂筋くんが闘っていたのは「自分以外のすべて」だった。でもそれはたぶん「自分自身」と同じ意味でもある。だから世界をぶっ潰したいと思うのは、きっと自分自身をぶっ潰したいと思うことと同じだ。

御堂筋くんが最後に思い出したのは、ずっとザクだと心のなかで罵りつづけていた仲間からのあたたかい言葉だった。もしかしたらそれは初めてかけてもらった他人からの情けだったかもしれない。そしてそれを思い出したのは、初めてかける自分自身への情けだったのだろう。今まで絶対に自分に敗北を許さなかった少年が初めて自分に敗北を許した瞬間、孤独という怪物と共に回していたペダルが止まる。倒れ込んだのはゴール直前のただの沿道、敗北という名の未来あるゴールだった。御堂筋くんに自分を重ねていた者のひとりとして、その魂の激走に心から拍手を贈りたい。