生き様を問う灼熱の相撲マンガ – 佐藤タカヒロ『バチバチ』感想

『バチバチ』というマンガが熱い。週刊少年チャンピオン連載の相撲マンガで、主人公が兄弟子や仲間たちと切磋琢磨しあいながら、土俵の上で互いの生き様をタイトル通りバチバチと激しくぶつけ合うという非常に男臭いストーリーなのだが、これが実にストレートでわかりやすく読者を熱くさせてくれる。このブログを作った時からいつか感想を書きたいと思っていたのだが、先月発売された単行本16巻をもって第一幕完結を迎えたということで、今がそのタイミングなのかしれない。これまでため込んできた胸の内をブチかましてみたい。

真っ向勝負の神髄

その昔、PRIDEという総合格闘技の興行があった頃、今でも語り草になる壮絶な試合があった。2002年6月23日、さいたまスーパーアリーナでおこなわれた高山善廣とドン・フライの伝説の殴り合いだ。まるで子供の喧嘩のようにただひたすら相手の顔面をボッコンボッコンに殴り合う。おそらく何の戦略も意図もない。ただ会場を沸かせるようなすごい試合をしたい。そのひとつの答えがこの殴り合いだったのだろう。仕掛けたドン・フライも男だが、応えた高山も男だ。鍛え抜かれた男たちがゼロ距離ノーガードで拳の応酬とか、冷静に考えたら正直かなり危ない。見ていられないくらいに。でも観客たちは目を背けたりしない。それどころか釘づけだ。まばたきすることも忘れる。それは野蛮なんだろうか。野蛮なんだろう。でもたぶんそれだけじゃない。きっと魅せられてしまうのだ。

こういう愚直なまでの意地の張り合い、心の折り合いみたいな闘いの引火力は凄まじい。まるでパチンとスイッチが入ったみたいに会場の空気を瞬間沸騰させ、観客たちは熱狂の渦に叩き込まれる。絶叫のような歓声をあげ、足をバタバタと踏み鳴らし、それは地鳴りとなって会場を揺らす。この地鳴りを聞くと、私はなぜかいろんなものに最高に感謝したくなる。例えばこの日ここに居合わせた幸運に。もっと言えば闘いの神様みたいな何かに。そして心から思う。今日ここにいれてよかったと。

『バチバチ』には、そういう感謝が溢れ出す真っ向勝負がある。マンガのなかのキャラクターだけど、そんなの関係なく応援したくなる熱い心を持った男たちがいる。私たち観る側の人間は、それをただしっかりと目を開いて見届ければいい。この胸でしっかりと受け止めればいい。それだけで伝わるはずだ。このわかりやすさは、普遍的な人間の魅力がそこにあることの証だろう。どんなに時代が変わっても、正面から本気でぶつかり合う人間は眩しく、観る側の人間の影は濃くなる。

「死んで生きれるか」の呪縛と継承

※ここからは全部読んだ人向けです。いろいろと触れます。

「死んで生きれるか」という本作のキャッチコピーは、もともと主人公・鮫島鯉太郎の亡き父である大関・火竜の口グセだが、最終話のサブタイトルにもなっており、物語全体を貫くテーマであることを窺わせる。

さて、この火竜。口では「死んで生きれるか」と言いながらも、暴力事件で除名処分を受けて土俵を追われた後は、酒と過去の栄光に溺れて死んだように生きる。このことが二重の意味で鯉太郎を苦しめ、火竜が死んだ後はかつて火竜自身がそうであったように、自分をぶつける相手や場所さえ鯉太郎は失くしてしまう。それでも湧き上がる激情は時々地元の不良相手に漏れ出したりもするが、矛先は常に自分自身へと向けられる。はからずも鯉太郎は火竜と全く同じ轍を踏んでいるのだ。

このように、物語の始めに意気揚々と掲げられる「死んで生きれるか」という決め台詞は、帯びる豪気とは裏腹に、その実としては鯉太郎にとって自らを縛りつける呪いの言葉であり、断ち切らずには前には進めない鎖だったと私は考える。そこには後に闘神と呼ばれることになる青年が秘める原石のような輝きはあれど、空流部屋に入門する前のこの時点ではまだそれは、ただ死に場所を求めているだけの向こう見ずな若者の呪詛という枠を超えるものではなかった。というのは、これだけでは「死んで生きれるか」という言葉を説明できていないということを、そしてその真意はもっともっと深いところにあるということを、最終話に至るまでの過程のなかで鯉太郎と我々読者は知ることになるからである。

では、その真意とは何か?それは作中ではっきりと明言されてはいないが、一人の力士の生き様を通してその答えはしっかりと提示されている。それこそが兄弟子・吽形の最後の闘いと廃業までの物語なのだ。吽形の執念と無念を家族として傍らで見守ることで、鯉太郎は真の意味で積年の呪縛から解放され、同時にそれを改めて正しく継承することになる。このように『バチバチ』の第一幕は「死んで生きれるか」という言葉から始まり、その真意に鯉太郎が至るまでの成長譚といえる。

阿吽と鮫島親子の二重対構造

阿形・吽形というキャラクターは「阿吽」という言葉の通り対をなす存在、ライバルという造型だと思うが、二人は同時にストーリーの軸として鮫島親子の生き様への解答として用意されたキャラクターでもあったと思う。

物語を結ぶ阿形・吽形の殺し合いのような闘いは、鮫島親子の哲学を具現化したような、生き様をバチバチとぶつけ合う壮絶な闘いだった。この時の、最大のライバルに死力を尽くして勝ったというのに何とも言えない顔をしている阿形の表情と、第一巻で火竜を殺したのは自分だと歯を食いしばる鯉太郎の悔しさは、どこか重なるところがあるように感じるのは、鯉太郎だけでなく阿形もまた同じ苦しみの中にいたからだ。だから第一幕ラストの取り組みが主人公の鯉太郎・白水ではなく阿形・吽形なのは、もちろん番付的な話でもあるのだが、物語としても必然だったといえる。

しかし、阿形その苦しみを超える。闘いの後、吽形の未練を完全に断ったのだ。未練とはある種の希望でもある。未練を断たせるということは、その人から希望を奪うことと等しい。他人の希望は、誰であろうと奪う権利はない。その人のこれからの人生を背負う覚悟でもないかぎり。阿形はその覚悟をした。阿形が吽形との別れ際に、たとえそれが手書きの平仮名でも見せたかった背中とは、つまりそういうことだと私は考える。仁王という四股名は、かつて空流部屋にいた吽形という力士の人生を預かったという男気と友情の証だ。そしてそれはこれから阿形の力の大きな源となるだろう。自分ひとりではないという力が、“力の阿形”をさらに強くする。

阿形というキャラクターが鯉太郎のアンサーなら、吽形というキャラクターは火竜のアンサーといえるだろう。自分の情熱が完全に消えるようにすべてを土俵に置いてきた吽形のけじめと、一方で、かつての兄弟子の画策で土俵にあがることも許されずに追放された火竜の燻りは、誰も幸せにしなかった。

吽形と火竜、一体何が違うというのだろう。どちらも惜しみない愛を相撲に注いだはずだ。なのに相撲の神様はなぜ吽形にはそれを少しだけ返し、火竜からは死ぬまで奪い続けたのだろう。いろいろ考えてみたが、答えはなかなか出てこない。ただ、もし何か言えるとするなら、吽形には自分の中の修羅に身を切る覚悟で応えてくれる親友がいた。涙を流して見届けてくれる師匠と弟弟子たちもいた。でも火竜にはいなかった。誰も愛さず、誰からも愛されず、ただ相撲だけを愛した。吽形は相撲と同じくらい人を愛した。きっとそれだけの違いだ。

「相撲」という生き様

相撲の立ち会いは全力のぶつかり合いでなければ面白くない。そしてそれは、我々の人生においても同じことが言えないだろうか。真摯に全力でぶつかってくる相手に対して、それを上手にいなしたりせず、こちらも愚直に力の限りをぶつけ返す。そうすることで初めて得られる達成感や境地があるはずだ。もちろんそんなことを繰り返していたらそのうち怪我をするだろうし、きっと傷はいつも絶えない。それにもしかしたら相手に怪我をさせてしまうかもしれない。それでも、人を傷つけてはいけないという美徳だけではたどり着けないヒリヒリするような魂の削り合いを、実は私たちはいつも心のどこかで密かに求めているのではないか。全力でぶつかっていける相手を探しているのではいないか。そして、自分もまた誰かに全力でぶつかってきてもらえる人間になりたいと思っているのではないか。30も過ぎていつの間にか生き方なんてものを覚えてしまったような気がしてる私に、『バチバチ』の眩しさによって濃くなった私の影がそっと語りかける。「お前、本当はこうやって生きたいんじゃないのか?」と。そうだ。私は本当はこうやって生きたいのだ。でも、こうやって生きられそうにない。その間にあるのだ。この胸を熱くする何かが。そして涙はそこに向かって流れるんだと思う。